松波勘十郎  1638?~1711

 

(まつなみかんじゅうろう)

【近世】

江戸中期の地方巧者。寛永15(1638)年頃に美濃国加納藩領鶉村の奥田家で生まれ、後に加納宿高庄屋松波家に養子に入り、寛文9(1669)年に同家を去った。この頃、幕府代官杉田直昌とよしみを通じ、杉田の下で検地を行って千数百石以上を打ち出した。その後、諸旗本の財政建て直しに従事し、地方巧者として名をあげてゆく。元禄元(1688)年頃に下総国高岡藩、上総国大多喜藩の財政再建に従事した。これを皮切りに広島藩の支藩三次藩、奥州棚倉藩など諸藩の財政立て直しに従事する。宝永4(1707)年、水戸藩に依頼され涸沼-北浦間で運河を開削して奥州から江戸間の流通促進を図るなどの施策を打ち出したが、領民による一揆を引き起こし失脚、後に獄死させられた。市域では九久平役所旗本鈴木家に登用され、貞享3(1686)年に年貢の取り立て方を検見取りから定免制に切り替えるなどの施策に関与している。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻70ページ