間取り

 

(まどり)

【民俗】〈住生活〉

家屋の間取りと大きさはヨハチ(ヨマハチ)、ムハチ(ムハチジョウ)という言葉で表現された。ヨハチは8畳間が4室の、いわゆる田の字型間取りで、一般的な家屋の大きさであった。ムハチは8畳間が6室で、かつてはオオヤ(大家)かホンヤ(本家)などの大きな家屋を意味した。増築や建て替えの時には、ヨハチからムハチにする家も多かった。家屋はふつうは南向きの右勝手、左住まいで、向かって右側にニワ(土間)、左側に部屋があった。ニワ側には井戸、流し、クド、ホソリ(漬け物置き場)、風呂、マヤ、小便所があり、かつては生産に関わる空間として使われた。現在では床を張り、隠居部屋、客間、勉強部屋などにしているところが多い。四間取りの場合、入口に近い部屋はシタテ(あるいはイノマ、シタヤ、シモダイ、ダイドコ)と呼ばれる。座敷机が置かれ、親しい客を通す部屋であった。冬は掘りごたつが置かれ、夜なべ仕事も行われた。その西の部屋はデイ(あるいはブツマ、ザシキ、カミ)といい、仏壇、神棚、床の間があり、接客、神仏の祭り、冠婚葬祭の際に中心となる部屋だった。カド(外庭)からデイに上がるところをデイクチといい、僧侶、上客、家の先祖(精霊)、年徳神はそこから出入りし、葬式の出棺もここから行われた。ブツマと呼ばれる特別の部屋が作られることもあり、広さは3、4畳で、床がほかの部屋より4寸ほど高かった。それにあわせて天井も少し高くされ、その中央に仏壇が置かれた。ここには坊さんや重要な客だけが入ることができた。北東の部屋はイワテ(あるいはキタダ、オカッテ、ダイドコロ、ダイドコ)といい、家族団らんの部屋、食事部屋で、ユルリ(囲炉裏)はここにあった。綾渡(足助地区)では、ユルリの西側をヨコザ、カミザといって主人が、北側をユワテといって主婦が、南側をザジマ、シモザといって客が座った。近年は掘りごたつが使われるようになっている。北西の部屋はオク(あるいはオクノマ、ナンド、ネマ)といい、主人夫婦の寝室であった。若夫婦が跡を継げば、老夫婦はここを譲り、ニワに作った部屋かソトヤの2階に移った。オクは、かつてお産のときは産室になり、葬式では湯灌の場所となった。六間取りの場合、南側中央の部屋をナカマ、北側中央をヘヤといった。少し大きな家にはマワリザシキがあり、デイが南北に2室あって、縁側が家屋の南から西へ回り込んだ造りになっている。仏壇は北のデイに南向きに置かれた。部屋名称の地域性をみると、市域北部の旭地区や小原地区では南東の部屋をシタテ、北東の部屋をイワテといい、この名称は岐阜県側にもみられる。これに対して、南部の松平地区や下山地区ではダイドコ、オカッテといい、こちらは岡崎市と共通する。またシタテ、イワテはダイドコと呼ばれている。これは漢字で「大床」と書き、もともと広間型間取りの広間を意味するものだったと思われる。〈住生活〉


『新修豊田市史』関係箇所:15巻400ページ、16巻385ページ