(まゆみやまじょう(あすけじょう)あと)
【考古】
足助地区足助町の須沢から真弓にかけて続く標高301mの真弓山山頂部に築かれた中世城館遺跡。足助の町並みの東端にあり、信州・東濃・名古屋・岡崎へと続く街道を見下ろす比高170~180mの要害の地に立地している。平安時代~南北朝時代にかけて足助地域に勢力を張った足助氏が本城を構えたといわれ、戦国時代には三河鈴木氏のうちの忠親から康重までの5代が知られている足助鈴木氏の居城となり、天正年間の初めには武田氏が西三河侵攻の際に一時期本城に入ったとされる。足助鈴木氏は天正18(1590)年の徳川家康関東移封に従ったため、城はこの時点で廃城になったと考えられている。城郭は南北約40m・東西約12mの本丸部分を中心に、四方に延びている尾根上に曲輪を配する構えを取っている。本丸の南側には南物見台を挟んで南の丸と尾根筋を遮断する堀切があり、西側に向けて腰曲輪が3つ並んで配置されている。本丸北部の西側には西物見台と西の丸があり、さらにその西側には複数の腰曲輪が展開し、堀切で遮断されている。本丸の北側にも腰曲輪が並び、南西部の谷筋上位には井戸が築かれている。昭和52(1977)年にNHK受信塔建設、また平成2(1990)~5年には愛知のふるさとづくり事業足助城再建に伴う計約1330m2の発掘調査が行われている。一連の調査で、本丸跡から2段階にわたる3基の掘立柱建物跡、南物見台から2基の小型掘立柱建物跡、南の丸で4基の掘立柱建物跡とカマド跡、北腰曲輪の2か所でそれぞれ1基ずつの掘立柱建物跡、そして西物見台と西の丸で2基の掘立柱建物跡と1基の掘立柱柵列が検出された。各曲輪からは天目茶碗・小皿や擂鉢などの瀬戸・美濃窯産陶器のほか、土師器皿、土師器内耳鍋、常滑窯産陶器甕、青磁・白磁・青花等の輸入陶磁器などの多種多様な遺物が出土しており、大半は15世紀後半~16世紀中葉に位置付けられるものである。本城は山城でありながら、各曲輪から多量の遺物を伴った建物跡が検出されており、山上でも日常的な生活や活動が行われていた城郭であったと考えられる。なお、この真弓山城は、文献史料にみられる足助城に比定されることが多いが、広島市立中央図書館浅野文庫所蔵『諸国古城之図』所載の「足助」城は、飯盛山城跡に該当するなどの異見もある。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻555・558・563ページ、20巻528ページ