(まんざい)
【民俗】〈祭礼・芸能〉
正月の祝福芸として親しまれる芸能。本来の姿は太夫と才蔵の2人が掛け合いで演じるもので、その地域が全体で氏神へ奉納する芸能とは異なり、個人的に芸を修得して門付けなどに出かけて行う場合が多かった。市域では、以前は各地に万歳を演じる人が存在していたというが、現在も伝えているのは地域の芸能となっている東保見町(保見地区)、西山(現西岡町、高岡地区)、下山地区(写真)と、少なからず同好者がいて演じている稲武地区などの例があり、それぞれ地域名の後に「○○万歳」と付けて呼ばれている。また、三河万歳とも呼んだが、これらの万歳の多くが御殿万歳に力を入れていることから、尾張の芸風を受け継いでいることは確かである。東保見町では大晦日の年越しの時、貴船神社拝殿で御殿万歳を演じている。ここで万歳が始まったのは大正5(1916)年頃といい、瀬戸方面から伝わった万歳だとされる。西岡町は西山と呼ばれたので「西山万歳」と称し、刈谷藩の庄屋の関係で江戸屋敷まで出かけて行ったと伝わるが定かではない。正月の1か月間、東京まで門付けに行く人もいて、毎年お得意さんのところを回った。祝儀のほかにご馳走も出され、正月以外の祝い事に招かれることもあった。地元の嫁入りの宴で演じることもあったという。平成4(1992)年に区民会館を建設した時、保存会を組織して活動を再開した。演目には、唯一三河万歳のものである「神道三河万歳」(七草の舞)と、あとは尾張万歳の「門付万歳」「御殿万歳」「ことかいな数え歌」があり、かつては「三曲万歳」も演じていた。下山地区の羽布町で生まれた下山万歳は、羽布小学校の同窓会演芸から始まっている。最初は地域の人にも内緒で、岡崎中町の柳屋一丸と知多加木屋(東海市)の琴之屋国男の2人に来てもらい、御殿万歳を習ったという。一時途絶えていたが昭和47(1972)年頃に復活し現在に至っている。〈祭礼・芸能〉
『新修豊田市史』関係箇所:17巻390ページ