(まんとくじほんどう)
【建築】
前林町(高岡地区)。開基覚順は蓮如の教化を受けて堤惣道場を創立し、実如の時代に、方便法身如来像を賜り本尊とした。当地の教化の中心となったので覚順入寂した際、その功を顕彰して顕如より染筆の法名を賜った。その後宗念の代、慶長15(1610)年山城国伏見荘(現京都府)にあった満徳寺を堤道場に移し、伏見山満徳寺と称した。現在の本堂は棟札によれば、8代釈霊静の代、文化6(1809)年に再建されている。棟梁は知多郡久米村(現常滑市)の片山要吉高貫であった。本堂は、入母屋造、本瓦葺、向拝1間(実長3間)付で東向きに建てられている。本堂の規模は、桁行実長10間、梁間実長9間半の江戸時代後期の中型の真宗本堂である。間取りは、前よりの間口7間、奥行3間を外陣、次奥の1間を矢来内とし、外陣の正側三方には、1間幅の広縁と半間幅の擬宝珠高欄付の落縁を付け、正面中央に向拝と木階4級を設ける。堂後半は、中央の間口3間を内陣、両脇の間口2間を余間とし、ともに奥行は3間半で、その内の背面半間に脇仏壇と余間仏壇を設ける。余間の外側には間口1間半の飛檐の間を配し、堂背面に幅1間の後堂を通す。内陣は来迎柱と須弥壇を用いる後門形式とする。柱は来迎柱2本と内陣廻りの10本を円柱とする他は面取角柱である。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。虹梁は、矢来内正面の柱間、外陣内梁行の柱間、脇仏壇・余間仏壇正面の柱間、来迎柱の柱間に虹梁を渡し、矢来内正面と外陣内梁行の虹梁上に彫刻蟇股、余間仏壇正面に詰組(出組)と蟇股を載せる。外陣外廻りは柱上に出組斗栱と彫刻支輪を載せ、柱間に双折桟唐戸と障子を入れる。内陣および余間正面は柱上に出組斗栱を載せ、彫刻蟇股、雲彫の板支輪を配し、内法上に龍や鶴の高肉彫欄間を嵌め、柱間には内陣前に双折巻障子、余間前に千本障子を入れる。内陣および余間内部にも出組斗栱と彫刻蟇股と雲彫の板支輪を配す。天井は広縁を格天井、外陣と矢来内と余間を小組格天井、内陣を折上小組格天井とし、飛檐の間と後堂を棹縁天井とする。この本堂は、江戸時代後期の建物で、後世の改造がほとんどないが、近年、耐震補強工事や屋根葺替工事が行われている。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻99ページ