(みかわいっこういっき)
【古代・中世】
永禄6(1563)年から翌年にかけ、西三河の矢作川流域を中心に起こった戦い。徳川家康が三河の領国化を進展させる中で、三河三か寺の一つである佐々木上宮寺の「寺内」を家康家臣が侵害したことに三河本願寺門徒が反発して軍事蜂起したとされる。本願寺門徒以外にも上野城(上郷町)を拠点とした酒井忠尚、東条城(西尾市)の吉良義昭などが家康との対立姿勢を示し、状況は家康勢力が複合的な反家康(親今川)勢力と各地で戦う構図になったとみられる。三河本願寺門徒は土呂御坊本宗寺(岡崎市福岡町)と三河三か寺(佐々木上宮寺・針崎勝鬘寺・野寺本證寺)を戦いの主拠点としたが、そこに市域の門徒勢力が馳せ参じたとか、市域で本願寺門徒による大きな戦いがあったというような史料情報は現在では見出し難い。参戦については敗北後にそれを語り継げる状況が失われたのかもしれない。市域は三河一向一揆の主戦場にはならなかったが、上野城では酒井忠尚が一揆に味方し、さらに諸勢力が同城に集結して家康と敵対した。家康は砦を築いて対抗し、隣松寺(浄土宗)に陣を置いたとも伝えられる。隣松寺が所蔵する佐々木金剛寺の銘のある雲版や家康が戦勝祈願したという冑三尊像などは三河一向一揆に関わっての伝来品である。同じく浄土宗の西運寺(市場町)にも関係する伝承がある。なお、上野城の陥落は永禄7年9月に至ってのことであったという。敗北後の三河本願寺門徒は、坊主衆が家康領国外への追放となったが、市域の道場坊主衆の動向に関する史実は詳しくわからない。そもそも山間部は家康の支配が及びきっていたようでもなく、三河一向一揆の大将格であった本證寺空誓が足助地区の山中に潜んだという伝承もある。また、いくつかの寺院由緒に大坂本願寺・石山合戦への参戦伝承も見出される。三河一向一揆から20年後の天正11(1583)年、坊主衆の追放処分が解除され、三河本願寺教団の再興がなされていくことになる。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻579・625ページ、21巻402・426ページ