(みかわけん)
【近世】
慶応4(1868)年2月、三河国の幕領を管轄していた中泉代官所およびその出張陣屋赤坂役所が接収され、三河国の旧幕領は新政府直轄地となる。4月、新政府は三河・駿河・遠江3国の直轄地を支配する機関として吉田(豊橋市)に三河裁判所を設置した。同月、新政府は政体書を公布し、そのなかで地方行政機関として府・県・藩を設置することをうたった。これに伴い6月に三河裁判所は廃止となり、代わって三河県が設置され、初代知事として土佐藩士長岡謙吉が就任した。三河県の役人には近隣諸藩の藩士や豪農が選ばれた。挙母藩からは藩士鶴見伊八郎、板倉来治の2人が出仕している。また、稲橋村の古橋暉皃が聴詔方捕亡格(捕亡御用掛)に、長興寺村の田中敬五郎が分一番所詰に就任した。維新政府は恭順した旗本の本領を安堵したが、藩と違い年貢徴収権のみを許したため、旗本領の領民の実質的支配権は三河県へ移行する。明治元(1868)年9月、静岡藩に三河・遠江両国で知行所が渡されることになる。さらに、明治2年、奥羽越列藩同盟に与した陸奥国福島藩板倉家が2000石を減封され三河に知行をすべて移され重原藩が立藩する。これにより三河県が管轄していた直轄地はほぼなくなり、三河県は伊那県に統合される。明治2年9月、伊那県は、三河管轄地域を管理するために、足助に足助局を設置している。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻746ページ
→ 伊那県足助局