三河地震

 

(みかわじしん)

【自然】

昭和20(1945)年1月13日(土)午前3時38分に発生したマグニチュード7.1、震央位置は北緯34.7度、東経137度付近の三河湾内とする内陸直下型地震。この地震の震度については、地震断層周辺の愛知県三和村や横須賀村、明治村や福地村で震度7とされ、三河地域のほとんどが震度5~6程度であった。地震による被害は甚大で、全体での死者は2306人、負傷者3866人、住家全壊7221棟、半壊1万6555棟であった。地震断層の直上や近接する幡豆郡、碧海郡での被害が大きく、住家全壊率が30%を超える町村は、桜井村(36.6%)、明治村(44%)、三和村(59.3%)、福地村(67.6%)、横須賀村(43.9%)、吉田町(31.5%)の6町村であり、激烈な地震に襲われたと考えられる。一方で、現市域の高岡村では、住家全壊率1.7%、上郷村では0.2%であり、相対的な被害は少なかった。震央から離れた地域の被害は相対的に少なく、狭い範囲に大きな被害を及ぼす、内陸直下型地震の特徴を現している。

『新修豊田市史』関係箇所:23巻667ページ

震度分布 三河地震は昭和東南海地震と同じくアジア・太平洋戦争末期に発生した地震であったため、戦時報道管制下において地震発生直後には詳細な被害報道は行われなかった。戦後、各地に散在していた被害調査報告等をまとめた文献から、三河地震における市域の震度は 4 ~ 6 と推定され、震度分布は市域南部で震度が大きく北東へ向かって小さくなる様子が記録されている。震度分布としては、高岡・上郷地区で震度 6 ないしは 5、それ以外の地域ではおよそ震度 4 ~ 5 程度、藤岡・稲武地区など猿投地区より北ないし東方ではそれ以下であった可能性が高いと推定されている。『新修豊田市史』編さん事業において平成 27(2015)年度から平成 30 年度にかけて行った豊田市民へのアンケート調査と聞き取り調査の結果から、これまで指摘されていたよりも広い範囲で震度 6 の揺れに襲われ、相応の被害があったことがわかった。具体的な震度は、高岡地区で震度 6 弱~ 6 強(一部で 5 強)、上郷地区で震度 5 強~ 6 強(一部で 5 弱)の揺れが確認できた。また、これまでおおむね震度 4 ~ 5 程度とされていた、挙母・高橋・猿投・保見・松平地区の一部においても実際には震度 6 弱程度の揺れに襲われた地点があることが明らかとなった。三河地震は午前 3 時 38 分と深夜に発生した地震であるため、ほとんどの人が就寝中であり昭和東南海地震よりも情報が少ないが、これまでほとんど資料のなかった挙母地区や保見地区、藤岡地区、稲武地区といった地域で、これまで推定されていた以上の震度であったことがわかった。

『新修豊田市史』関係箇所:23巻677ページ

被害 三河地震は三河南部を震源とする内陸直下型地震であったため、市域での揺れは昭和東南海地震よりも相対的に小さかったと考えられる。そのなかで、市域で最も被害が大きかったのは、高岡地区である。駒場町の徳念寺では、建物の下敷きとなり疎開児童 2 人が死亡、寮母も負傷した。そのほか、家屋の全壊 38 棟、半壊 220 棟、家屋以外の全壊 63 棟、半壊が 235 棟と報告されている。高岡地区駒場町での調査では、「揺れが強く飛び起きて外へ逃げたが、戸がなかなか開かなかった」「目を覚ましたが動くことができず外へ出られなかった」という。そのほか、町内では傾いた家屋や、屋根や壁に損傷を受けた家屋があったとのことである。一方、隣接する上郷地区では、死者負傷者の報告はなく、家屋の全壊 3 棟(うち鴛鴨町と和会町で各 1棟)、半壊 20 棟(うち鴛鴨町 2 棟と和会町 3 棟)、家屋以外の全壊 20 棟、半壊 209 棟と報告されている。上郷町では「立っていることができず、這わないと動くことができなかった」という。そのほか「西切八幡社の灯籠が倒れた」とのことであった。永覚町では、「寝ていたが揺れで飛び起きて、玄関へ走っていった。南向きのトイレの扉越しに外がパーッと明るくなり、ゴーという音がなったと思ったらグラグラと大きく揺れた。茶箪笥は倒れなかったが、電灯は揺れ、自転車が 1 台倒れ、台所では蒸篭・篭が 2 ~ 3個落ち、すり鉢が 3 ~ 4 個落ちて割れた。納屋の屋根瓦が2 ~ 3 枚落ちた」との話であった。永覚町の被害については「愛宕社の灯籠が崩れて傘が割れた」「墓石の約半数が転倒した」また同社の「瓦も数枚落下した 」とのことであった。また、挙母地区喜多町では、「家の中が波打つように揺れ、今までにない地震だと思った。家の中心に家族が集まって揺れが収まるのを待ち、外に出た。天井が外れるかと思った」「地震後、喜多神社の境内では 70 ~ 80 人程が布団を持って集まり、蚊帳を吊って雑魚寝で 1 週間程度過ごした」という。地震による被害については、喜多神社の鳥居上部が落ち、柱だけの状態になったこと、浄久寺墓地の墓石の転倒、蔵の倒壊がみられたという。三河地震での家屋の被害については、前月の昭和東南海地震によって家屋が傾いたり、壁にヒビが入ったりした状態のまま修理がなされず、三河地震の揺れでさらに被害が悪化した家もあった。また余震が多かったため、怖くて家になかなか入れず、わら小屋を建てて避難する生活が長引いたという。『新修豊田市史』編さん事業において平成 27(2015)年度から平成 30 年度にかけて行った豊田市民へのアンケート調査と聞き取り調査の結果からは、余震が続いたことで避難小屋での生活が長引いたという話が多かった。余震による家屋の倒壊から身を守るために家族が寝泊まりするための空間として設けられた避難小屋は多種多様なものが作られたが、なかでもわら小屋が最も多く見られた。設ける場所はさまざまであり、竹藪の中、田、家の表(庭)、水枯れしている枝下用水の上などに建てられた。材料はわらだけにとどまらず、雨戸やトタンで囲まれた小屋、蚊帳をつった上に莚を載せた小屋、庭の木を支柱に利用した小屋などが作られた。さらに、空襲に備えて地下に掘った防空壕を余震対策として使用した家もあった。他方で、防空壕の土が落ちると危険と考え、防空壕とは別の避難小屋を設けた人も多かった。そうした人は、余震の場合はわら小屋、空襲警報発令の場合は防空壕へ入るというように、事態に合わせて避難する場所を変える必要があり、大変だったという。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻720・728ページ、23巻669ページ

【近代】

昭和東南海地震とともに、アジア・太平洋戦争末期の地震であり、戦時報道管制のもと、具体的な被害や写真の報道は禁じられた。そのため、「隠された地震」とも表現される。日記、学校沿革史、『新修豊田市史』編さん事業において平成27(2015)年度から平成30年度にかけて行った豊田市民へのアンケート調査や聞き取り調査により、豊田市内における具体的な被害状況、多様な避難小屋の様子が明らかになった。夜中に起こった地震のため、ほとんどの人が就寝中であった。昭和東南海地震後も余震が続いていたため、避難小屋で寝ていた人、余震の一つだと思った人もいた。挙母・高岡・上郷地区においては、外に逃げようとしたが、揺れが大きく、這って外に出た人が多かった。高岡地区の徳念寺山門が倒れ、名古屋市杉村国民学校からの疎開児童や寮母が下敷きになった。地域住民による救出・救護活動がなされたが、児童2人が亡くなった。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻728ページ