(みかわじしんによるとくねんじのひがい)
【自然】
三河地震において、高岡地区駒場町の徳念寺では、庫裡の玄関、山門、鐘撞堂、灯籠や土塀の倒壊があったという。さらに、名古屋市杉村国民学校から疎開していた児童が全壊した建物の下敷きとなり、2人が亡くなった。また、徳念寺の寮母も、児童を外へ押し出す際に下敷きとなり、大けがを負った。なお、別の文献では学童28人、訓導2人が死者として挙げられている。しかし『新修豊田市史』編さん事業において平成27(2015)年度から平成30年度にかけて行った豊田市民へのアンケート調査と聞き取り調査から得られた情報では、徳念寺における死者は児童2人のみであった。高岡村駒場国民学校(現駒場小学校)「沿革史」の同日の欄にも、「大地震アリ、疎開児童二名圧死」、杉村小学校の記念誌には「悲しい三河大じしん」と題して「そかい先のお寺の一つ、徳念寺の建物がたおれて、こども二名が命をなくしました。たいへん大きなじしんでしたが、死者の数は、戦争中でくわしくは知らされていません」とあることから、死者は2人が正しいと考えられる。その後、杉村国民学校の子どもたちは、駒場町の人々の協力のもと、寺の敷地や竹藪にテントを張ったり、避難小屋を建てたりして昭和20年11月まで徳念寺での生活を送った。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻729ページ、23巻677ページ