三河代官

 

(みかわだいかん)

【近世】

5代将軍徳川綱吉により代官の官僚化が進められる以前に、三河国の幕領支配を担った代官達のこと。慶長10(1605)年段階において、三河支配に関わった代官は、三浦直正ら複数人いた。このうち、駿府奉行である彦坂光正・畔柳寿学は駿府代官と兼務している。これは三河国の幕領が大御所家康の政策を実現する財政基盤としての性格を有したためとされる。寛永13(1636)年頃に幕領の統廃合・再編が行われ、三河国では鳥山家、鈴木家、松平家の3家が代官を世襲して三河の大部分の幕領を支配するようになる。鳥山家は、丹波精俊(号「洞意」)が慶長6年に吉良東条において代官となり、以後牛之助精明、牛之助精元と続き、貞享元(1684)年に精元が越後国の代官に転出するまで三河代官を務めた。鳥山家が市域で行った施策としては、衣城破却と精元堤の構築があげられる。寛文4(1664)から天和元(1681)年頃、衣村(挙母村)が幕領となり鳥山家が管轄した。鳥山家は、衣城を破棄して田畑にして蔵を7つ建てるとともに、旧衣城下の東町曲尺手の堤に直角に張り出した精元堤と呼ばれる堤を作るなど治水にも力を入れた。鈴木家は、八右衛門隆次が慶長13年頃に代官に任じられ、以後隆政・重政と世襲し、天和元年に伊勢国四日市代官に転出する。松平家は天正18(1590)年の徳川家康関東転封に従わなかった家康家臣親宅(号「念誓」)が、関ヶ原の戦い後に再び家康に仕えて代官となり、以後親重・重忠・親正と続く。寛永12年、親正は中泉代官に転じるが、三河国に750石ほど支配高が残ったため、長沢に出張陣屋を置いてこれを支配した。以後、中泉代官を親茂・正周と世襲。彼らも長沢に出張陣屋を置いた。市域に置いて鳥山家・鈴木家が支配する幕領があったことは確認できる。一方、松平家に関しては確認できない。ただし、松平家が市域とまったく無関係だったわけではなく、明暦2(1656)年に松平親茂が鈴木重政・鳥山精明とともに羽布村と田原村(新城市)との山論の裁許を行っている。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻101ページ