(みかわでんりょく)
【近代】
三河電力は、衆議院議員今井磯一郎(1841~1909)が専務取締役となり、岡崎電灯の創業に関わった近藤重三郎・田中功平等が中心になって、明治32(1899)年7月に事業許可を受け、同34年3月に設立された。矢作川の支流田代川に、出力100kWの小原発電所(現川下発電所、写真)を建設し、明治35年9月に開業した。担当技師は、岩津発電所を建設した技術者、大岡正であった。岡崎電灯が西三河中心に事業を拡大したのに対し、三河電力は西三河以外での電力供給をめざした。まず東春日井郡瀬戸町に送電し、ついで多治見町での供給を目指したが、岐阜県は多治見電灯の計画を優先させ、東濃進出は実現しなかった。代わって愛知郡千種町に電灯電力の供給を、名古屋市内に電力供給を申請し、明治35年3月に許可を受け 、37年1月から供給を開始、38年10月には東海電気へと改称した。中央線千種駅から日清戦役記念碑(広小路通り、旧県庁前)までを配電し、第三師団等にも電灯電力を供給して、名古屋電灯と激しい競争を繰り広げた。東海電気は小会社だったが、日露戦争の影響で炭価が高騰し水力が割安となったので、火力発電が主体だった名古屋電灯は押され気味であった。当時名古屋電灯は、名古屋財界・東京財界連合で計画された名古屋電力の脅威を受けていたので、東海電気の動きに強い危機感を抱き、破格的な好条件を提示して、明治40年6月に合併した。三河電力(東海電気)が矢作川水系に所有した小原発電所、盛岡発電所(建設中)、賀茂発電所(水利権)の3発電所は名古屋電灯に帰属した。なお、賀茂発電所(水利権)は明治44年7月に、小原発電所は大正8(1919)年12月、岡崎電灯に再譲渡された。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻457ページ
→ 岩津発電所