三河国造

 

(みかわのくにのみやつこ)

【古代・中世】

ヤマト政権が任命した三河地域の地方官のこと。行政・軍事・裁判・祭祀権を握り、王権の命令でさまざまな貢納・奉仕を行った。『隋書』倭国伝によれば、「軍尼一百二十人」とあり、推古天皇10(602)年来目皇子が新羅と戦争しようとしたとき、「神部・国造・伴造」らが動員されたとあり、国造制が全国に成立していた可能性が高いとされている。三河国造の存在を示す記事はほとんど無く、延喜14(914)年太政官符に三河国に国造田が4町6段存在したと記されているくらいである。『先代旧事本紀』巻十国造本紀によれば参河国造は志賀高穴穂(成務天皇)朝に物部連祖出雲色大臣命の五世孫知波夜命をもって国造に定め賜うとあるが、成務天皇は伝承上の天皇で史実であるとは見なせない。また、『同』巻五天孫本紀には、宇摩志麻治命の三世孫の大禰命の弟が出雲醜大臣命であり、倭志紀彦の妹真鳥姫を妻として 3 児を産み、その 1 人が大木食命であり三河国造の祖とある。出雲醜大臣命は懿徳天皇の時代に大夫・大臣になったとあるが、懿徳天皇も伝承上の人物である。ただ、両者ともに三河国造と物部氏や出雲色大臣命との関係など同じ構造をとっており、三河地域と大化前代の物部氏との関係を知る上で貴重で、事実木簡等により物部姓は賀茂郡を始めとして碧海郡・額田郡・幡豆郡と現在の西三河に広く分布していることがわかっている。国造は一般に直・臣・君などのカバネをもっていたといわれているが、長岡京出土木簡の延暦 10(791)年 9 月26 日の「麻津郷庸米五斗」と記された荷札木簡に「戸主三川直弓足戸一斗」とみえるのが唯一の例で、麻津郷は『和名類聚抄』に額田郡に属するとあるので、三河直氏の後裔がそこに住んでいたことがわかるが、麻津郷名は未詳である。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻14ページ