『参河国碧海郡誌』 

 

(みかわのくにへきかいぐんし)

【近代】

大正5(1916)年碧海郡教育会が編さんし、刊行した郡誌である。本文1000頁の大著である。郡誌の編さんは明治11(1878)年碧海郡が設置された直後、郡長市川一貫が郡書記高橋祐雄(古三郎)に調査を命じたことに始まる。高橋は同15年、郡の地理や歴史、風俗、行政施設など郡の概要を記した『碧海郡地理誌』を市川の依頼で編集した。高橋は郡誌編さんのために、郡内の古文書・古記録の所在調査を実施し、それに基づいて脱稿を終えたという(井深基の序文)。明治31年郡教育会は高橋の原稿を増補改訂して刊行する計画を立て、教育会評議員の黒田定衛(旧刈谷藩士の家に生まれ郡の教育に尽力)、原田高敏(旧西端藩士で村政、農業、教育などに尽力)、鶴田勝蔵(村政、用水事業に尽力)らを編さん委員に任命した。評議員は福島に帰郷していた高橋を招聘しようとしたが、老齢を理由に断られたため、事業は進まなかった。明治35年に郡長に赴任した脇屋義純は事業を復活させたものの、日露戦争や町村大合併(明治39年)もあって延期を余儀なくされた。明治41年編さんは再開され、さらに井深基が郡長として赴任した翌年、大正3年に大正天皇の大嘗祭の悠紀斎田として六ッ美村(現岡崎市)が選定されると、それを記念した事業として郡誌の完成をめざすことになり、大正5年に刊行をみた。構成は総説、沿革、行政、教育、兵事、産業、交通運輸、社寺、名所旧蹟、風俗人物伝および大嘗祭悠紀斎田点定記念編の13編からなるが、同時期に編さんされた他の郡誌と構成はほぼ変わらない。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻361ページ

→ 高橋祐雄(古三郎)