(みかわぶんけんうんどう)
【近代】
三河全体を統合して成立した額田県(明治4年11月15日設置)を再置して尾張中心の愛知県から独立させる運動。明治5(1872)年11月27日、尾張を管轄する愛知県と額田県(三河国と尾張国知多郡を含む)を合併し、現在の愛知県が成立した。だが、合併によってさまざまな不利益を被っているという意識が当初から三河地域にあった。そのため、明治8年頃から三河を愛知県から独立させようとする運動が開始され、三河郷友会・興参協会といった団体や『参河郷友会雑誌』、『三河旬報』などのメディアを中心に展開された。明治14年5月には三河と尾張の財政を別立てにすることを求める「尾三両国の経済を分離せんことを乞ふの建議」が愛知県会に提出・可決された。しかし、結果的には、県会を郡部会(尾張郡部・三河郡部)と区部会(名古屋区)、両者が共通する連帯会に分ける三部経済制が導入された。そして、県会での名古屋区の定数が増加したため、尾張対三河の県会勢力は60対28という尾張優位の体制が固まり、地方税を負担しても自らの利益を通せない三河の不満が高まった。明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う祝賀会として、三陽大懇親会(岡崎)、東三倶楽部懇親会(豊橋)が別々に開催された。その席で三河分県の調査委員として、東三河から古橋義真ら9人、西三河から早川龍介、今井磯一郎ら8人が選出された。明治23年1月、早川らは額田県再置を求める建白書を元老院に提出したが、西郷従道内務大臣は反対の意見書を山県有朋総理大臣に提出し、建白書は却下された。そして、第一議会(明治23年11月~24年3月)・第二議会(明治24年11月~12月)に額田県再置案は相次いで提出されたが、第一議会では会期が迫ったために撤回され、第二議会では解散のためにともに審議されなかった。そして、第三議会(明治25年5月~6月)では、今井・早川によって「額田県設置ニ関スル法律案」が提出された。だが、尾張出身の自由党衆議院議員森東一郎(中島郡選出)が愛知県選出の衆議院議員11人のうち分県に賛成したのは今井・早川のみであり、分県は岡崎や額田郡周辺の人民の希望にすぎないと反対論を展開する。実際に、三河内部でも豊橋を中心とする東三河では、非分県論が根強く存在していた。さらに、非自由党系の今井・早川によって運動が進められたため、森ら自由党系の反発も招いたのである。その結果、法案は5月13日の衆議院第一読会で賛成者少数のために廃案となり、三河分県運動は収束した。なお、三河分県運動の終焉後、三河意識に支えられた人々は愛知県の枠組みの中で、教育や鉄道、殖産などの地域振興に尽力していくことになる。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻84ページ