水入遺跡

 

(みずいりいせき)

【考古】

上郷地区の渡刈町に所在する後期旧石器時代~江戸時代前期まで断続的に集落等が営まれた複合的な大規模遺跡。矢作川右岸の埋没段丘面に立地しており、平成9(1997)~12・26年に発掘調査が行われている。遺跡中央の小谷により北の西糟目地区と南の大屋敷地区とに区分され、大屋敷地区にある古墳時代の大溝や奈良時代を中心とする古代集落、鎌倉時代の土坑墓群が特徴となっている(写真)。また、遺構が埋没段丘面から発見されることも明らかにされている。西糟目地区の99J区では、段丘を構成する灰白色粘土層中の窪地状の地形などから後期旧石器時代のナイフ形石器や剥片などが出土しており、周辺で製作されたものが流れ込んだと考えられている。縄文時代の遺構は99C区で焼土坑群が検出され、放射性炭素年代測定によって縄文時代早期と推測されている。また99D区では縄文時代中期後葉の、中央に炉跡を有する竪穴建物跡が4基が検出され、若干量の深鉢などの土器が出土している。また晩期後半の土器棺墓から条痕文土器の深鉢が出土している。その後、弥生時代前~中期の活動は少なく、同終末期には大屋敷地区の99B区を中心に竪穴建物で構成される集落が営まれている。これらの遺構は古墳時代の大溝の東側堤防下となっていることから、大溝構築以前のものであることは明らかである。大溝の構築時期は、98C区の段丘崖下から多量の土師器群が出土していることからみて、古墳時代前期末と推測される。大溝の南方延長線上には、古墳時代中期の水田遺構が検出された天神前遺跡が立地しているので、大溝開削の目的はこれらの沖積低地上の水田への灌漑であったと推測される。また、大溝の脇には大型竪穴建物があり、大溝内から石製模造品や刀形などの木製品、手捏ねの土師器小型壺などが出土していることから、祭祀の場が設けられていたと考えられる。その後大溝の周辺では主に掘立柱建物で構成される集落が形成され、5世紀後半の須恵器が多く出土している。しかし埋没が進んだ大溝周辺では一旦、集落規模が縮小し、7世紀後半以降になると再び竪穴建物が増加していく傾向がみられる。この時期には西糟目地区で新たな集落形成が始まり、8世紀前・中葉の建物が比較的高位地点に築かれるようになる。ところが、8世紀後葉になると再び段丘崖付近の低地部への集落の集中が始まる。やや大型の建物の存在や製塩土器・銙帯金具・暗文土師器などの出土から、これらの古代集落には有力者がいたことがうかがわれ、8世紀後葉には瓦塔や鉄鉢形須恵器などの仏教信仰関連遺物の出土によって村落寺院があったと考えられている。古代集落は9世紀後半にはほぼ途絶し、中世になると同じ場所に13~14世紀代を中心とする墓域が広がるようになる。中世墓は主に円形の土坑墓で、少数の方形土坑墓からは和鏡や青磁碗・合子などの副葬品が出土している。さらに16世紀代になると、古墳時代の大溝を拡張して堀状に巡らした区画内に大型の掘立柱建物が構築されるようになる。堀状の区画は矢作川へと直結し、川湊的な機能を有していたと推測される。しかし、これらの構築物は江戸時代前期以降に生じた洪水によって堆積した砂層の下に埋没してしまい、集落も廃絶した。

資料提供者「(公財)愛知県教育・スポーツ振興財団愛知県埋蔵文化財センター」

『新修豊田市史』関係箇所:1巻43・364ページ、2巻104・438・441ページ、3巻261ページ、18巻98ページ

→ 銙帯金具瓦塔製塩土器石製模造品中世墓ナイフ形石器輸入陶磁器