水汲遺跡 

 

(みずくみいせき)

【考古】

藤岡地区下川口町に所在する縄文時代遺跡で、矢作川上流右岸の標高約90mの河岸段丘縁に立地している。豊富な出土資料から、市域を代表する縄文時代遺跡の一つとなっている。昭和45(1970)年に藤岡村誌編さん事業による遺跡分布調査時に発見され、昭和56年1 ・2 月には藤岡町教育委員会ならびに大橋勤・杉浦知らによって遺跡の範囲や時期を確認するための学術調査が、また翌57年には夏・冬にわたって追加調査が実施された。その後、遺跡周辺の開発に伴い、昭和63年には住宅建築に伴う調査、平成元(1989)年にはほ場整備事業に伴う発掘調査が行われている。一連の発掘調査で、竪穴建物跡4基のほか、土坑、土器埋設遺構、環状配石遺構、配石遺構、炉跡などが見つかっている。竪穴建物跡は縄文時代前期後半と中期後半のものがそれぞれ2基ずつ確認されており、土器埋設遺構は縄文時代前期後半の完形の深鉢(写真左)を正位に据えたものである。土坑の中には、逆位状態の縄文時代前期後半の土器を伴うものがあり、甕被り葬が行われた墓坑と考えられる。環状配石遺構は縄文時代後期初頭の称名寺式期のもので、2基の土器埋設遺構(埋設土器、写真右)を伴っていた。出土遺物には、縄文土器・土製品・石器があり、縄文時代草創期と考えられる尖頭器が最も古い。土器は前期後半~後期前半までのものが多量に出土しており、主体となっているのは前期後半の北白川下層Ⅱb式から北白川下層Ⅲ式・大麦田式にかけてのものである。中期の土器は前半の北屋敷式のほか、後半の咲畑式・中富式、神明式、取組式が多くみられ、環状配石遺構に伴っている後期初頭の土器は、土器埋設遺構に用いられた2点の他にはほとんど見られない。土製品では、土器片利用鏃やミニアチュア土器・土製耳飾などが出土している。石器は、石鏃・石匙・石錐・スクレイパー類・剥片類・石核・打製石斧・礫器・切目石錘・打欠石錘・磨石・石皿・磨製石斧が出土している。出土遺物のうち、完形に復元された土器5点が市指定文化財(考古資料)となっている。


『新修豊田市史』関係箇所:1巻69・85・92・104・117・122ページ、18巻226ページ

→ 大橋勤杉浦知配石遺構・集石遺構