味噌

 

(みそ)

【民俗】〈食生活〉

味噌は大豆に米や麦を加えて作る発酵食品で、毎日の味噌汁のほかに冬の煮味噌などに欠かせないものだった。西三河地方では大豆のみを原料にした豆味噌(赤味噌)が作られた。全国的には、豆味噌を用いるのは愛知県のほかに、岐阜県南西部、三重県北部や徳島県の一部に限られている。味噌はウチミソといって各家で作られ、その古い製法は「大豆を煮てつぶし、丸めてワラヅトにくるみ、天井から下げてカビ(麹菌)をつけ、カチカチに固まったものを叩いて砕き、塩を混ぜて樽に仕込む」(葛沢・足助地区)というものであった。和合(下山地区)ではコロガシミソという製法があり、味噌玉にカビをつけて槌で砕くところまでは同じだが、それから四斗樽のカガミ(はまっているフタ)の穴から少しずつ豆と塩と水を入れ、栓をしてニワで転がして混ぜた。味噌作りは個々の家で行うだけでなく、近所や組など、数軒が共同で仕込み作業をすることもあった。ハナ(麹)をつけた後、各家に持ち帰り、樽に仕込んで重石をかけ、味噌部屋で寝かせた。味噌が腐るとよくないことが起こるとされ、仕込みには細心の注意を払った。山間部では3年寝かせたものが美味しいという話が多かったが、平野部では半年から1年程度というところが多い。戦後になると、味噌屋から指導員が来て共同の味噌作りを指図するようになり、作業場所が確保できる家がミソヤドとなって、道具なども用意していた。昭和20年代後半から30年代前半頃になると味噌作りを味噌屋に委託することが増え、市域では「桝塚」(野田味噌商店)や「マルカ」(丸加醸造場)などの味噌屋が味噌の委託加工を請け負った。各家では収穫した大豆と四斗樽を荷車で運んで預け、味噌を仕込んでもらった。〈食生活〉

『新修豊田市史』関係箇所:15巻327ページ、16巻328ページ