(みっきょうのかいが)
【美術・工芸】
大乗仏教が発展してゆく中で、インド在来神への信仰やその呪術が取り入れられ神秘的な呪術儀礼とともに成立したものが秘密仏教、すなわち密教である。密教成立時に新たに考案された尊格が明王で、明王は最も密教らしい尊格といえる。日本へ早くもたらされたのは千手観音をはじめとする変化観音や薬師如来などの強力な仏菩薩の力に依拠した非体系的な密教、すなわち雑部密教(雑密)だったが、平安初頭に空海や最澄を筆頭に真言宗および天台宗の留学僧が中国より大日如来を中核とした体系的な密教すなわち純部密教(純密)を日本へ移入した。現存する密教絵画の大部分は、この真言宗および天台宗による純密の文脈によるものである。こうした密教絵画としてはまず、多数の尊格により密教の体系を図示する曼荼羅が挙げられる。そのうち最重要のものは、純密の根本経典である『大日経』と『金剛頂経』の理念を曼荼羅化した両界曼荼羅であるが、密教には所依経典の違いに応じてこのほかにも多種多様な曼荼羅がある。特に大日如来以外の尊格を中核とした曼荼羅を別尊曼荼羅と呼ぶ。曼荼羅は儀礼の本尊として用いられることもあるが、大日如来、不動明王、孔雀明王など、個別の尊格が儀礼の本尊として描かれることも多い。また儀礼の場を守護する十二天など、儀礼の場に奉仕する存在としての尊格が描かれることも多い。さらに真言八祖像や、弘法大師(空海)像、伝教大師(最澄)像をはじめとして、真言・天台両宗の祖師を描く祖師像がある。密教はその性格から、山岳信仰と結びつき修験道を形成したり、神道と結びつき本地垂迹説を形成した。修験道における役行者像や、日吉山王と密教を結び付けた山王垂迹曼荼羅など、そうした信仰における絵画もまた、広義の密教絵画と呼ぶことが可能だろう。市域には密教寺院が少なく、必然的に密教絵画も乏しい。両界曼荼羅は薬王院(畝部東町)に江戸時代のものが残るにすぎない。特定の尊像を描いたものとしては長興寺(長興寺)にいずれも15世紀の妙沢様の不動明王像および毘沙門天像、善宿寺(下林町)に15世紀の文殊菩薩騎獅像、高月院(松平町)に室町時代後期の弁財天十五童子像、弘願寺(和会町)に室町時代後期の千手観音像、観音寺(千洗町)に万延元(1860)年制作の木版手彩色の不動明王二童子像、常行院(今町)に江戸時代の十二神将・日光菩薩・不動明王像(2幅対のうち右幅のみの残闕)がある。祖師像としては、弘願寺に江戸時代の弘法大師像がある。修験道の絵画としては、智教院(小渡町)に江戸時代の役行者前鬼後鬼像、妙見寺(浅谷町)にいずれも江戸時代の木版手彩色の吉野曼荼羅および役行者前鬼後鬼像がある。垂迹画としては弘願寺に江戸時代の山王垂迹曼荼羅(写真)がある。
『新修豊田市史』関係箇所:21巻210・234・236・300ページ