(みなもとのしげなが)
【古代・中世】
12世紀、三河などで活動した武士。足助重長や賀茂重長ともいう。美濃尾張源氏の一族。平治元(1159)年よりあと、美濃方面から三河の足助の地に進出し、その地域の在地勢力であった若尾氏などを駆逐していったと考えられる。当時の三河国守は後白河院の近臣たちが任じられていた。また、重長の妻の兄弟は後白河院の姉である上西門院に仕えていたのであり、おそらく重長の足助進出は院権力の庇護下でのものであった。このことは、以後の足助の地が実質的な天皇家領として開発されたことを示すであろう。一方、重長の娘はのちに鎌倉幕府の2代将軍である源頼家との間に公暁を儲けている。足助を苗字の地として足助氏と名乗るようになるこの一族は、京都と鎌倉の双方に太いパイプを有していたことが想定される。なお、重長自身は、治承5(1181)年3月、源行家に従って墨俣川の戦いに臨み、平家に敗れて戦死した。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻191ページ