(みやぐちやくしょ)
【近世】
旗本内藤家が知行所支配のために宮口村(挙母地区)においた役所。承応2(1653)年に志摩国鳥羽藩主内藤忠重次男忠吉が志摩国内で3000石を分与されたことに始まる。寛文6(1666)年2代忠広が家督相続の際に、弟宮千代に2000石を分与したが、宮千代は早世したため、甥の忠知が2000石を継いだ。延宝8(1680)年に鳥羽藩主内藤家が除封となったため、忠広は宮口村と北莇生村(みよし市)に知行替えとなった。江戸中期以降は岩倉村(松平地区)の宇野家と取引があった。内藤家は忠広以後知行所を変えることなく9代続き、明治維新を迎え、知行所は重原藩領となった。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻50・346ページ
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