三宅氏

 

(みやけし)

【古代・中世】

15・16世紀に賀茂郡に勢力をもった武士。『寛永諸家系図伝』( 6 巻、系図七)によると、備前の児嶋の出身とするが、詳細は定かでない。三河に入った三宅氏は中条氏の被官となったが、寛正年間(1460 ~ 66)には三宅周防守が実力を強めた。明応 2(1493)年 6 月には三宅筑前守家次が猿投社の拝殿を造営し、明応 8 年には家次が猿投社東御宮の造営を立願するに至った。かつて中条氏が務めていた役割を三宅氏が行うようになり、三宅氏は地域の実質的な支配者の立場に移りつつあったと考えられている。三宅周防守、筑前守家次の系譜や嫡庶は明らかでない。三宅氏は梅坪や広瀬に拠点をもったが、本宗家の城は東広瀬城であり、16 世紀に広瀬三宅氏は足助鈴木氏、寺部鈴木氏と連携し、今川氏と対立した。桶狭間の戦い後も広瀬三宅氏は反今川氏の立場であったことが知られるが、しばらくのちに滅亡しており、その事情は判然としない。梅坪三宅氏は永禄 3(1560)年、4 年頃に織田信長の攻撃を受けたが生き残り、梅坪を離れて松平(徳川)家康に属し、江戸時代まで存続した。なお、永禄 6 年頃か、広瀬もしくは伊保の国衆と推定される三宅孫介は信長に栗毛馬を進上している。これは信長への臣従の姿勢をあらわしたものであり、信長に従った三宅氏の一族がいたことを示している。また、岡崎市桑原町にある曹洞宗寺院の龍渓院には祠堂帳が伝えられており、それには永禄 2 年 4 月 13 日に、「梅坪三宅弾正」が同院繁渓源昌庵主に月忌供養料 1 貫文を納めたとあり、その信仰の一端が知られる。永禄 12 年12 月には、三宅右近尉の夫人「およ」が、長興寺に三十三観音像全 33 幅を再び寄進している。家康に従った梅坪の三宅康貞は、家康の関東移封に伴い、三河を離れて武蔵国瓶尻で 5000 石を与えられたが、慶長 9(1604)年に知行 1 万石で衣に入封した。その後、康信・康盛・康勝と続き、寛文 4(1664)年に田原へ転封した。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻375・407・496・531・573・634ページ、3巻10ページ

→ 挙母(衣)藩