宮ノ後遺跡

 

(みやのあといせき)

【考古】

足助地区足助町の足助八幡宮境内から足助支所一帯に広がる縄文時代~近世までの遺跡。巴川と足助川の合流地点西側の段丘上にあり、昭和44(1969)年に刈谷市在住の考古学研究者谷澤靖が八幡宮境内地を学術調査して以降、足助支所新築や国道拡幅等に伴って、平成23(2011)年までに14次にわたる発掘調査が実施されている。縄文時代の遺構としては竪穴建物跡1基、土坑・配石土坑が発見され、遺物は縄文早期~晩期末の土器、石器、土製耳飾が出土している。弥生時代の遺構は前期の土器棺墓1基のみであるが、包含層中から弥生時代前期~中期、古墳時代前期前半の土器が出土し、古墳時代前期の土器には赤色顔料の精製に使われた台付小型鉢も含まれている。遺跡は川の合流点を眼下に見下ろす高台という好位置に立地しているため、各時代において集落が築かれたものと推測される。古代~近世の遺物には土師器と須恵器、山茶碗、瀬戸・美濃窯産陶器と常滑窯産陶器、輸入陶磁器、瓦などがある。足助八幡宮の拝殿周辺からは12~13世紀の塩狭間窯跡で焼成された軒瓦などが出土している。八幡宮本殿の西側には神宮寺があったとされ、塩狭間窯跡産の瓦は、この神宮寺に供給された可能性がある。足助支所の周辺では戦国時代の区画溝と江戸時代の方形集石遺構2基のほか、鎌倉~江戸時代の遺構が確認されている。江戸時代の村絵図では現在の足助支所までが足助八幡宮(本殿再建は文正元〈1466〉年)の境内となっており、支所の位置には禰宜屋敷と教寿院(天正13〈1585〉年創建)が存在した。なお、教寿院前身の真敬院は観応2(1351)年には存在していたと伝わる。中世後半期~近世の遺物が多量に出土し、その中には禰宜である成瀬氏の「成」が墨書された陶器片も含まれている。これらの遺物や近世までの遺構は、禰宜屋敷の存在を裏付けるものであるが、その一方で、現在の境内は「宮ノ後」、南側は宮平と呼ばれている。拝殿前周辺では15世紀後半以降の遺物がほとんど出土していないことから、かつての足助八幡宮は宮平の地にあり、再建時に現在地に遷座した可能性もある。


『新修豊田市史』関係箇所:1巻227ページ、2巻163ページ、19巻354ページ、20巻508ページ