妙昌寺

 

(みょうしょうじ)

【近世】

明徳3(1392)年に、松平親氏が無染妙了を開山にむかえ創建したと伝えられる王滝町(松平地区)にある曹洞宗寺院。弘治2(1556)年の松平親乗売券、年未詳松平元康禁制などの中世文書を伝える。天正17(1589)年の太閤検地で妙昌寺領が明確にされ、さらに慶長8(1603)年8月28日付、徳川家康朱印状により「賀茂郡簗山曲村」のうち20石が妙昌寺領と定められ、翌年の検地で寺領が確定されている。しかしその後も、妙昌寺領と定められた山林は、おそらく下草や木材など、周辺住民にとって有益な資源の宝庫であったことから、境目をめぐる「出入」や「違乱」が生じている。文化年間(1804~18)においても、妙昌寺領と定められた山林をめぐる争論が幕府に持ち込まれているが、おおむね遠隔地の百姓上層出身者で占められていたらしい妙昌寺の住職になりかわり、寺領の村役人が前面に立って、将軍の寺領朱印状を重要な根拠としながら解決を図っている。つまり妙昌寺領という朱印寺領の実態は、寺領村役人らによる周辺地域の利害調整という面をもっていたのである。他方、武家との関係では、徳川家康に仕え永禄2(1559)年に戦死した鈴木重政と、その子で寛永5(1628)年の死去かとみられる重次の葬地は同寺と伝えられる(寛政重修諸家譜、写真:三河鈴木宗家の墓所)。重次の2代あとの重祐は、元禄3(1690)年に道元筆とされる墨跡等を同寺に寄進している。天保6(1835)年末に、妙昌寺に盗賊が侵入し、住職が殺害される事件が生じた際には、幕府代官から、領主の一員というにはあまりに貧弱な防備の弱さを批判され、殺害された住持の位牌をまつることを禁じられている。このほか妙昌寺は、周辺住民の檀那寺としての役割を果たしたり、近隣住民間の紛争を調停したり、加茂一揆の記録を残したりしているが、特に施餓鬼や節句などの年中行事、松平親氏の年忌供養などを主催していた事実は、松平太郎左衛門家を含めた近隣の住民たちの信仰生活を知ることのできる手がかりとして貴重である。


『新修豊田市史』関係箇所:3巻659・694ページ