妙昌寺本堂・山門

 

(みょうしょうじほんどう・さんもん)

【建築】

王滝町(松平地区)。寺は、曹洞宗、延文元(1356)年に無外円昭が当地に草庵を結び円昭寺と称し、明徳年間(1390~94)には松平親氏が無染融了を開山とし、妙昭寺と改めた。その後も、領主の庇護を受けて繁栄し、境内には領主関連の五輪塔、宝篋印塔などを残す。近世に入り、享保年間(1716~36)頃に13世常揚代に妙昌寺と改めた。現在の本堂(写真)は、嘉永7(1854)年に上棟、山門は建築様式から江戸中期頃、鐘楼は明治以降のものである。本堂は、桁行5間、梁間5間半、寄棟造、鉄板葺、一間向拝付、南面建ちとする。間取りは、前面に広縁を通し、奥に前後2列、横3室をおく方丈形式とする。向拝は、柱上に虹梁を渡し、連三斗を載せ、主屋と海老虹梁で繋ぐ。堂前面は、中央柱間に虹梁を渡し、木階を付けて入口とし、両脇では中敷居、差鴨居を通した引違い窓とし、柱上に平三斗を置く。堂内では、現在広縁に畳を敷詰め、大間では、前面中央間に虹梁を渡し、その両脇では各室境とともに敷鴨居、内法長押を通し、内法上を白漆喰壁とする。大間内部は、間口3間、奥行3間の18畳として両脇を開放し、上の間、下の間では15畳とし、上奥の間、下奥の間では10畳とし、いずれも棹縁天井を張る。内陣は、前面に2本の丸柱(露柱)を立て、中央を高く虹梁を3スパン渡し、中央後方に来迎柱を立て、前に箱仏壇、後に仏龕を出して本尊を安置している。来迎柱の後方は後門とし、その両脇に脇仏壇を設け、後門の奥に開山堂を設けている。この本堂は、堂内の内法長押、来迎柱の斗栱の省略等があるものの、江戸後期の曹洞宗本堂の特徴をよく示している。山門は、切妻造、桟瓦葺、一間薬医門である。主柱間に冠木長押を渡し、蹴放し、戸当たりを付けて両開き板戸を吊る。主柱と控柱間では腰貫、飛貫を通し、雄梁を渡し、前方では主柱先を持出し梁とし、前端に軒桁を渡している。両妻は雄梁の上に大柄な板蟇股を置いて棟木を支え、破風に梅鉢懸魚、軒に一軒疎垂木をみせる。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻148ページ