(みょうせいじほんどう)
【建築】
月原町(足助地区)。貞応2(1223)年に僧永円(秀円)が月原に天台宗明専院を開いたのが始まりという。その後、親鸞に帰依して浄土真宗に改宗したと伝えられる。延宝5(1677)年に本山より明誓寺の寺号とともに本尊と祖師の真影が下付された。嘉永2(1849)年には第19代秀泉が現在の本堂と山門を再建した。本堂は、桁行実長10間、梁間実長9間、入母屋造、茅葺(瓦形鉄板覆)、向拝1間(実長3間)付の中型本堂で東面する。軒は二軒繁垂木。間取りは、堂前半の間口7間、奥行2間半を外陣、その奥1間を矢来内とし、外陣の正側三方に1間幅の広縁を廻らし、さらに正面と南側に半間幅の擬宝珠高欄付の落縁を付け、正面中央に向拝と木階4級を設ける。堂後半は、中央の間口3間を内陣、その両脇の間口2間を余間とし、ともに奥行3間で、その内の背面半間に脇仏壇と余間仏壇を設ける。余間の外側には間口1間半の飛檐の間を配し、堂背面に奥行半間の後堂を通す。内陣は来迎柱と須弥壇を用いる後門形式をとる。柱は来迎柱2本と内陣廻り6本(正面を除く)の8本を円柱とするほかは面取角柱とする。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。虹梁は、落間・広縁境の柱間、外陣外廻りの柱間、矢来内正面の柱間、外陣内梁行の柱間、内陣・余間正面の柱間、内陣廻りの柱間、脇仏壇・余間仏壇正面の柱間、来迎柱の柱間に虹梁が用いられ、広縁柱間には柱上に出三斗と詰組、余間仏壇正面の虹梁上に詰組(出組)を載せる。外陣外廻りは柱上に出組斗栱を載せ、波彫蟇股を入れ、柱間には正面に双折桟唐戸と障子、側面に舞良戸と障子を入れる。内陣および余間正面は柱上に出組斗栱を載せ、彫刻支輪を入れ、内法上に龍の高肉彫欄間を嵌め、柱間には内陣前に双折巻障子、余間前に千本障子を入れる。内陣および余間内部にも出組斗栱と詰組(背面は蟇股)と彫刻支輪を配す。天井は外陣を格天井、矢来内を小組格天井、内陣・余間を折上小組格天井とする。この本堂は、江戸時代後期に再建されたものだが、改造も少なく茅葺の当初の形態がよく残されている。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻123ページ