麦作

 

(むぎさく)

【民俗】〈農業〉

かつての稲作農家は現金収入を増やすため、収穫した米を少しでも多く換金に回すことを考え、飯米を節約し、不足する主食は麦を食べて補っていた。このため、戦後に安価な輸入品が出回るまで、どこの家でも1年間の自家消費のための食料として麦を作り、大麦は米に混ぜて食べ、小麦はうどんなどの加工食にされていた。麦には米の裏作として田で作るものと、専門に畑で作るものとがあった。山間部では麦の裏作ができるような良質の乾田のことをムギタ・ムギュウタと呼んでいたが、こうした田は少なく、畑作の麦が多く作られた。平野部では可能な限り田の裏作で麦を作るようにしていて、乾田以外でも高い畝を作り、排水溝を切るなどして麦を作った。平野部では麦作用に整えた湿田のことをムギタ・ムギュウタと呼び、田に排水溝を掘り、高い畝を上げることを「ネッキをあげる」といっていた。田で麦を作る場合、稲刈り後にコギリ(畝作り)を始め、11月中には播くようにした。畑の麦はやや早く10月頃に播き、畝幅は田よりも狭いものであった。ムギダネの播き方には、バラバラと散らすバラ播き、ビッチュウで田にスジをつけて播くスジ播き(条播)などがあった。市域ではスジ播きが主流であったが、稲刈り後に田を耕さず、稲株近くにカブ播きをしたところもある。麦の生育管理としては、冬期に根を定着させ、分けつを促すための麦踏み作業がある。この後、2月から4月には追肥と土入れをし、根もとに土を寄せる根寄せ(土寄せ)を行った。田で麦を作った場合、麦の収穫が田植え時期と重なるため、麦刈りの後にすぐに田を起こして田植えをしなければならず、たいへん忙しかった。麦作では、田に残った稲の株を切るためのカブキリビッチュウ、土入れ用のジョーレンや土入れ機(写真)、耕起や畝を壊すためのハネクリビッチュウ(下駄ビッチュウ・テコビッチュウ)など、状況に応じて専用の農具が使用された。〈農業〉


『新修豊田市史』関係箇所:15巻161ページ、16巻102ページ