(むしかてい)
【建築】
高岡町(高岡地区)。六鹿清七(1845~1917)は、岐阜県笠松町で生まれ、明治維新後に材木商を営み、陸軍名古屋師管区の木材調達を務めていたが、内務省所有の林野の払い下げを受けて、この高岡新馬場に移住、明治35(1902)年頃には160町歩の開墾に成功して財を成し、地域の農業の振興にも尽力した。主屋(第1和室)は、棟札によれば、明治40年1月5日上棟(大工中野梅次郎ほか8人、車力近藤甚三郎ほか3人)、離れ屋(第2和室)は明治31年8月14日上棟している。戦後、農地改革により農地を失い、不在地主(京都在住)のため昭和22(1947)年、高岡村に家宅を譲渡、以後は高岡町、豊田市の公共施設として活用された。高岡中学校特別教室、高岡和洋裁学園、高岡村立高等家政学校など高岡地区の社会教育活動の拠点となった。昭和56年に高岡公民館を「六鹿会館」と改称、市の迎賓館の役割を果たし、昭和58年に行われた姉妹都市デトロイトのヤング市長との交歓会や世界デザイン博覧会(デザイン博)、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)には多くの来賓が訪れた。敷地面積は7530m2。第1和室(写真)は木造平屋建、切妻造、桟瓦葺、平入、桁行21.76m、梁間11.37m、建築面積324m2とする。間取りは12間、6間の大きな六間取りの畳座敷で、北側に1間幅の入側縁(広縁)、南側に縁側をつけている。構造は和小屋だが成は高く(棟高7.58m)、大黒柱は欅材、柱は栂材が使われ、ニワ(土間)からみることができ、幾重にも交差した梁や太い鴨居の架構は、大地主・材木商に相応しい威容を示している。第2和室は建物として主屋と縁側で通じ、L字型に配置している。木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺、平入、桁行8.42m、梁間4.69m、建築面積67.4m2とし、床付八畳座敷の2室に縁が回っている。土蔵は表門に年貢米を収納する蔵があり、主屋裏(北側)にも3棟あったが破却され、現在は残された1棟を保存展示している。市指定文化財。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻476ページ