ムラ 

 

(ムラ)

【民俗】〈社会生活〉

民俗学では明治以降の行政上の村と、自治の単位であった近世村の伝統を引き継ぐ集落とを区別するため、後者を「ムラ」と表記することがある。ムラは自治を行う社会集団であり、役職者を選出して寄合を開き、共有地を管理して共同労働を行うとともに、ムラ人同士は互助協力の関係を結び、結束を深めるために祭礼をともにしてきた。多くは氏神として神社を持ち、多くの檀家をムラ内に有する寺院があるのが普通である。ムラの範囲は、おおむね旧町村時代の大字に該当し、大字の多くは江戸時代の村を踏襲し、民俗の伝承母体となってきた。ただし、豊田市合併前の大字がかならずしも江戸時代の村であったわけではない。例えば東郷(小原地区)は江戸時代には一ノ野村と小村こむれであり、明治22(1889)年に福原村に合併したとき、東市野々と小村の2つの大字(ムラ)になり、昭和48(1973)年に2つのムラが合併した際に小原村の大字になっている。また江戸時代の村のムラ組が大字になった事例もある。ムラはその外部に対しては排他的な側面がある。よそから新しくムラに入るためには、かつてはムラの有力者の後見が必要で、綾渡(足助地区)ではこの後見者をワラジオヤといい、その家をワラジヌギバといった。堤(高岡地区)や桝塚東(上郷地区)では保証人を立てていた。ほかのムラとの境が山林である場合、その帰属をめぐって山論や境論が起きることもあり、境に目印として木を植え、杭を打ったり塚を築いたりもした。ムラの災厄を追い出す虫送りや神送りの行事では、隣りのムラとの境が送り先となった。ムラを表す言葉として、市域ではジゲ(地下)やブラク(部落)が用いられ、ムラ内の建物が集まるところをゴウ(郷)とかゴウナカ(郷中)と呼んだ。また、ムラの外はワキ(脇)・トナリ(隣)、タショ・ヨソ(他所)、セケン(世間)などと称している。〈社会生活〉

『新修豊田市史』関係箇所:15巻450ページ、16巻428ページ