(むらかみただまさ)
【近世】
碧海郡堤村新馬場(高岡地区)の医者。刈谷藩医。本居派の国学者。歌人。17歳の時に渡辺綱光に和歌と国学を、18歳の時に秦鼎と植松茂岳に国学を学ぶ。長兄真武と同様、医術修行のため7、8歳頃には名古屋に出て、尾張藩医大河内敦や、真武が学んだ浅野春三の弟子加藤敬順らに傷寒論や内治法を学んでいる。真武が急逝したため、医学修行中の19歳で堤村の医者となる。父の忠幹は忠順が家業の医者より和歌に傾倒していることを危惧してたびたび諭しているが、忠順は吉田(豊橋市)の羽田野敬雄・岩上登波子、福田原村(みよし市)の医者酒井利亮、江戸の橘守部・橘冬照や小林歌城、伊勢の佐々木弘綱、飛騨高山の富田礼彦、出雲の佐々鶴城・森為泰、京の大田垣蓮月・高畠式部、和歌山の長沢伴雄・熊代繁里といった全国の国学者や歌人と書状を通じて交流することで国学に目覚めていった。嘉永2(1849)年に国学者本居内遠に入門する。平田派の国学者羽田野敬雄からは、平田篤胤の著書周旋や発刊情報の提供を受けるなど交流し、羽田野が羽田八幡宮文庫を創設すると、書籍 5 巻を奉納している。忠順が医者を開業すると堤村周辺の者が忠順に入門して国学を学ぶようになる。忠順の門人は、天保 2(1831)年頃から明治 7(1874)年までで合計 159 人であった。後に娘婿となる深見篤慶や、碧海郡花園村(高岡地区)の豪農寺田重明も門人の一人であった。天誅組の変を起こした松本奎堂とも交流があった。刈谷藩主の侍医でもあった忠順は、藩主に和歌などを指導し、藩士に経書の講義も行っている。明治維新の際には勤王派として活躍し、慶応 4(1868)年正月、尾張藩の徳川慶勝が三河諸藩の勤王誘引活動を行った際、忠順は岡崎藩へ勤王誘引懸として赴いている。また、3 月には東征総督有栖川宮熾仁親王に召されて駿府に出仕し、その後東征軍に合流して 4 月には江戸城西の丸に入り、5 月の上野戦争を経て堤村に帰村した。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻606・617・619ページ