(ムラぐみ)
【民俗】〈社会生活〉
ムラの中はいくつかの近隣組織に分かれているのが一般的で、ムラ組と呼ばれる。1軒の家は1つのムラ組に所属する。ムラ組はムラの開発経過と密接に関係し、生活の実情に即して形成されてきた。キリ(切)、シマ(嶋・島)と呼ばれるものは自立性が高く、モヨリ、ヤシキ(屋敷)、ホラ(洞)などは自立性が低い。ムラ組の中は、行政の要請で作られた組や班に分かれ、場合によってはこれらがムラ組となっていることもある。ムラ組にはキリ(区)長、シマ長(惣代)、シマ議員、年行司などの役職が置かれ、木瀬(藤岡地区)では講親、寺部(高橋地区)では町総代と称していた。中にはムラ組の代表がなく、ムラ組の下部組織である組の組長、区会議員などがムラ組単位に置かれ、代表の役割をしているところもある。このほか、代理、会計係などの役があった。役員は古くは有力者による持ち回りになっていたようで、その後は選挙で選出したり、家の順番で務めたりするようになり、任期は1年が多かった。白川(藤岡地区)では正月の念仏講、木瀬では8月の盆の際に選出された。ムラ組ではキリヨリアイ、シマヨリという集会を開くところが多く、川面(足助地区)のようにムラ組の集会所を所有していたところもあるが、多くはお堂やムラの公会堂、ムラ組の代表や祭り当番の家などを会場にしていた。寄合は正月に開催されるところが多いが、飯野(藤岡地区)ではシマの経費を決算するシマ勘定の後であった。自立性の高いムラ組は、葬式の手伝いをする葬式組、死者供養をする念仏講として機能したほか、山の神の祠堂を祀ったり、祭礼では飾り馬を奉納したり、またオヤク(共同労働)の際の受け持ち単位にもなった。葬式の采配はシマ代表が行い、葬列の先頭の「案内」を務めた。シマの寄合の後は、オヒマチやシコという宴会を開くところもあった。〈社会生活〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻467ページ、16巻446ページ