(めいおうじしん)
【自然】
明応7(1498)年8月25日に発生した明応地震は、紀伊半島から伊豆、相模までの範囲において震度5~6程度の揺れを引き起こした大地震とされ、その震央は遠州灘の北緯34.1°、東経138.2°付近、地震の規模を示すマグニチュードは8.6、東海地方に大きな被害を及ぼしたとされる。市域での震度は不明であるが、三重県の多度で震度5~6、愛知県の渥美、静岡県の三ケ日や新居で震度6程度とされることからこれより若干小さかったと推定される。三重県熊野の熊野社や那智の坊舎が崩れ、地震の40日後に湯峰の湯が出たとされる。伊勢大湊では津波により家屋の流失倒壊が1000軒、溺死者5000人(伊勢志摩で溺死1万人)とされるなど、著しい津波被害が生じた。愛知県でも渥美や田原、豊橋での記録があり、豊橋では豊川の川筋が変わるほどの地変があったとされる。三河の浜辺では高津波のために(集落が)滅亡した記録もある。浜名湖ではそれまで新居と舞阪の湖岸が陸続きであったが、地震と津波によって浜名川が閉塞し、その結果湖岸が切れる「今切の変」が起こり、湖が海と通じたとされる。一方、浜名湖の奥浜名一帯では地盤の沈下が著しく、猪鼻湖の津々崎や周辺では陥没があり、いくつかの集落が湖底に沈んだとされる。現袋井市の浅羽湊は地形が変わるほどの被害を受け、それに伴い川湊として栄えていた集落(磐田市元島遺跡)が衰退したとされる。また小川村(焼津市)では、「大地震動、海水大いに湧き、溺死する者およそ二万六千余人」とされている。さらに東の相模国鎌倉由比ヶ浜では、およそ10m程度の津波が大仏殿に達して舎屋が破損し、流死者200人と伝えられている。
『新修豊田市史』関係箇所:23巻600ページ