(めいおうのせいへん)
【古代・中世】
明応2(1493)年4月、管領細川政元が足利義材を将軍位から追放し、足利義高(のち義澄と改名)を将軍とした室町幕府内政変。義材が将軍となって以来、六角氏成敗、家督をめぐって分裂抗争中の畠山氏への介入など、軍事行動によって将軍権威を高めたのに対し、政治の主導権を握ろうとした細川政元は反発を深めていた。政変後に京を脱した義材は、北陸、のちには周防に移り将軍復活を狙い続け、永正5(1508)年に将軍に復活した。この政変は、義材、政元にそれぞれ連なる人々の命運を左右し、地方の政治状況にも影響を与えた。市域に関わることとして、大給松平家と岩津松平家の対立が推定されている。岩津松平家2代親長と大給松平家「松平加賀守」は、政変まではともに幕府政所執事伊勢氏の被官としての活動が認められるが、加賀守の活動所見は明応2年閏4月を最後に途絶える。伊勢氏は政元派の中枢にあった。当時の三河守護細川成之は細川庶家の人で、義材は政元抑制のため成之に接近していた。『参陽松平御伝記』は大給家加賀守乗元と細川成之の縁戚を伝えている。これからすれば大給松平加賀守は義材派と見なされ、政変後に京都での活動の場を失ったらしい。「松平氏由緒書」は、岩津家出の松平親忠が細川(岡崎市細川町)まで出馬して指揮し、大給松平一統の所領を焼討ちしたと伝えている。文亀元(1501)年、親忠の葬儀に際し、大給松平一門の参会はなく、岩津松平一門と大給松平一門の疎遠ぶりが知られる。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻454ページ