(めいじいしん)
【近世】
慶応3(1867)年10月、15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還を申し出る。12月、小御所会議で慶喜に納地辞官を求めることを維新政府は決める。これに旧幕府側は反発し、江戸薩摩藩邸焼き討ち事件を切っ掛けに、旧幕府と維新政府において重きをなしていた薩摩藩・長州藩との間で戦端が開かれ鳥羽伏見の戦いが勃発、旧幕府軍が敗退する。慶喜が大政奉還を申し出た際、朝廷は大政奉還に伴い名目上天皇の臣となった諸大名を統べるために衆議開催を企図して全大名に上京するよう命じたが、多くの藩は情勢を見極めるために上京を辞退した。この時、挙母藩は藩主内藤文成が幼少であるとの理由で上京延引を願い出て許されるとともに、新政府から重臣を名代として上京させるよう命じられる。しかし、12月に文成が暮らす挙母藩江戸上屋敷にほど近い薩摩藩三田屋敷が旧幕府に焼き討ちされる事件が勃発したため、藩は文成の安全を図ることを優先して重臣の上京を延引させた。翌4年正月、新政府軍先鋒橋本少将実梁らからの使者が挙母を訪れ、徳川慶喜ら朝敵追討が命じられたことを挙母藩に伝えるとともに重臣を四日市まで派遣するよう命じてきた。挙母藩はこれに応え、四日市に重臣を派遣し新政府への恭順の意を表した。2月、文成は江戸を引き払い挙母へ移ることを決め、江戸在住の家臣にも挙母への移住を命じた。閏4月、新政府から駿府守衛の命令が下ったため、川西初太郎を隊長とする小隊を派遣している。5月、前月に発布された政体書の趣旨に応じる目的で大規模な職制改革を行い、政治・国事・会計・軍務・内務各局を設置、藩士の身分を第1等から第6等に区分した。5月、静岡藩立藩に伴い遠江国の知行が上知となり、代わりに美作国で替地が与えられた。明治2(1869)年、新政府が版籍奉還を進めることを決定すると挙母藩もこの方針に従うこととし、遅くとも2月中に新政府に版籍奉還を願い出ている。3月、新政府が定めた「藩治職制」に従い再び職制改革を行い、決機・文武・郡市・刑法・会計各局を設置、藩士の身分も第1等から8等および等外に改めた。6月、版籍奉還の勅許がだされ、藩主文成は挙母藩知事に任じられた。一方、新政府は慶応4年2月に尾張藩に命じ三河に領地を持つ諸藩・旗本への勤王誘引を行わせた。これに応えて松平太郎左衛門家や大島役所石川家など旗本達も尾張藩に勤王証書を提出して帰順の意を表した。その後、新政府が旗本達に知行所に居住するよう求めると、これに応えて三河国に居を移す旗本も少なくなかった。旗本は本領安堵を受けるには上京する必要があったが三河裁判所総督平松時厚が三河裁判所での手続きを経てから上京するよう命じたため、上京が遅れた者も多かった。結果、三河国に知行を持つ多くの旗本への安堵は、相対的に遅れたとされる。11月頃、帰順を願い出たほとんどの旗本への安堵は済むが、認められたのは年貢徴収権のみで、領民への支配権などは三河県に移った。静岡藩や重原藩が立藩されると三河国の旧旗本知行所はこれらの藩に与えられることになり収公される。なお、明治2年12月に新政府が旧旗本の年貢徴収権も否定。全国的に旧旗本知行所は姿を消す。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻738ページ