(めいてつみかわせん)
【現代】
三河鉄道は、大正13(1924)年10月31日に猿投まで開通。昭和2(1927)年8月26日、猿投-枝下間4.1kmが開通、三河御船、枝下駅が開業した。続いて同年9月17日、枝下から三河広瀬間1.3kmが開通、三河広瀬駅が開業した。昭和3年1月22日には三河広瀬-西中金間2.7kmが開通して西中金駅が開業するなど、順調に延伸していった。大正10年11月2日には西中金-足助町7.3kmの免許を得ていた三河鉄道は、引き続き足助町追分まで用地の買収と路盤の築造を行ったが、それから先は買収の難航や不況の深刻化により、工事施工期限の延期を繰り返し、名古屋鉄道へ合併後も延期申請をしてきたが、昭和33年6月27日免許を返納し、足助町など西三河山間地域の住民を落胆させた。昭和40年代になると乗用車が急速に普及し、鉄道利用者の減少が進んだ。そして昭和60年3月に、猿投-西中金間が経費削減のため電車からコストの安いレールバスとなり(写真)、知立-西中金間の直通運転に終止符が打たれた。架線がはずされた同区間は、1時間に1本、1両編成のレールバスが走るようになった。平成10(1998)年11月、名鉄は三河線猿投-西中金を含む、輸送密度2000人(km/日)未満の赤字線を廃止する方針を決定した。また、平成11年6月の大雨では、御船町の御船川鉄橋などで盛土が流出する被害が出たが、1か月半後に無事復旧した。平成12年10月、沿線自治体は「名鉄三河線存続連絡協議会」を設立、存続の方法を検討し、平成13年10月から市町村が赤字を補てんすることで最長3年間まで運行が継続されることになった。沿線住民有志も、平成12年に「レールバス2000利用促進の会」を発足し、駅の清掃や修理、回数券の購入などを行い利用を呼びかけた。その後も協議会は運行存続の要望書を提出したが、レールバスを取り巻く状況は変わらず、平成 16 年 4 月 1 日での廃止が決定した。そこで関係市町村(豊田市、藤岡町、小原村、足助町、旭町)は「名鉄三河線代替交通検討協議会」を発足させ、代替バスの運行計画の検討を始めた。豊田市と足助町が運行経費補助により運行する「西中金足助バス」と一体化して、愛知環状鉄道四郷駅から足助町の百年草を結ぶ代替バスの運行を始めた。鉄道では断念された足助までの直通運転が、「さなげ足助バス」の運行で実現した。代替バスは、レールバスの運行に近い、シンプルな路線、ダイヤ編成。また、運行ルートは、レールバス運行区間を基本に、「西中金足助バス」と直通化することで、乗り継ぎの負担を解消した。また、猿投駅から愛知環状鉄道四郷駅までの区間を延長して、利便性を良くした。バス停の配置も工夫し、買い物や通学にも便利になるようにした。
『新修豊田市史』関係箇所:5巻19・525ページ、14巻73ページ