(もふく)
【民俗】〈衣生活〉
喪服の色は白から黒へと変化した。大正時代以前は白ムクといって、身内は全員、上着も下着も白い着物を着用した。その後、親や夫の葬式のみで白を着るようになり、着用者が限定されていった。親や夫が亡くなると白い喪服を着る習慣は、大正時代から昭和初期にかけて豊田市全域でみられた。男性は白の着物に白裃をつけ、女性は白の着物に白の帯を締めた。足袋も白でワラ草履をはいた。喪主が頭に紙で作った白い三角をつける地区もあった(上郷地区、挙母地区、高岡地区、石野地区)。山間部では女性の白い喪服の着用が長く続き、平野部では喪主の男性が白い喪服をつける例が最近までみられた。喪服の色が白から黒へ変わった時期は、第二次世界大戦中から昭和30年代にかけてで、地域により差がみられた。変化した要因の一つには、昭和初期から戦死者の葬儀を国家が管理し、黒の喪服への統一が図られたことがあげられる。また、昔は土葬だったものが火葬になり、葬儀場へ行くようになったためだという説もある。黒の喪服の場合、男性は黒紋付または黒の羽織袴を着た。鴛鴨(上郷地区)の話者によれば、羽織の丈は2尺7寸もあり、長い羽織だったという。やがて、昭和45(1970)年ぐらいからは着物を着なくなって黒の礼服になった。女性の場合、長襦袢にカサネと呼ぶ白の下着、黒の喪服を重ねて着用した。喪服には冬用・夏用・合着があり、結婚する際に揃える習わしだった。喪服には三つ紋を入れるが、嫁方で作った喪服には実家の家紋を入れた。娘が19歳の時に作ると厄除けになるといわれた。喪服の着装の際には、長襦袢、下着、喪服の3枚の衿を美しく揃えて着付けるために気を使った。やがて、白の下着と黒の喪服を重ねるのは不幸が重なるからよくないとされるようになり、昭和40年代には重ねなくなった。黒の喪服は衿の部分のみ重ねて着ているようにみせる比翼仕立てになった。衿を揃えやすいので、着装自体も楽になった。〈衣生活〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻247ページ、16巻244ページ