(もめん)
【近世】
天保7(1836)年10月、東鴛鴨村(上郷地区)から大多喜藩小牧役所(西尾市)に提出された「差上申綿畑之事」と題する史料には、同村の大多喜藩領分の畑地で木綿が栽培されていた土地の石高と面積が記されている。これによれば本畑14町1反余りのうち約65%にあたる9町3反余りで木綿が栽培されている。さらに新畑の上畑・中畑ではすべての土地で木綿が栽培されていた可能性があり、東鴛鴨村の畑地ではかなり積極的に木綿が栽培されていたと考えられる。挙母東町の鈴村家は栽培した実綿を売却している。文久2(1862)年には実綿300斤を収穫、一部を売却して13両を得たとしており、この点は同年の鈴村家の「金銀出入帳」にある挙母南町の文蔵と藤屋喜兵衛に計133斤2両7分の実綿を売却し、金7両2分と銀32匁1分9厘を得ている点と一部対応する。高岡地区花園村の寺田家は周辺地域から仕入れた実綿・繰綿を木綿反物に加工、さらに木綿反物を買い付けて岡崎・西尾方面の買次問屋へ売却する木綿仲買商を営んでいた。また万延元(1860)年には、挙母町とその周辺の繰綿商人が仲間を結成している。以上のように市域南西部の挙母・高橋・上郷・高岡地区の村では、換金を目的とした木綿の栽培が展開しており、それに伴い実綿や繰綿などを扱う商人やその加工品である木綿反物を扱う商人たちが活動していたことは間違いないであろう。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻273ページ