焼畑  

 

(やきはた)

【民俗】〈農業〉

山を焼いて畑を作り、作物を育てる行為をヤマヤキ、カリヤマ、キリヤマヤキ、ヤキバタなどと呼び、その畑自体もカリヤマと呼んだ。市域山間部には夏焼や焼山など直接焼畑を表すと考えられる地名があるほか、ソレ、ゾレ、ゾウレ、ゾウレン、ソラなどの音を含む地名が多くみられ、これらも焼畑と関連するものと考えられている。かつての市域山間部では、焼畑は特に珍しいものではなかった。ただ、ソレ、ゾウレンなどは崩落地や耕作放棄地を指すこともあり、注意が必要である。畑作物を輪作し、数年後には別の場所に移動して継続的に焼畑を行っていたのは市域北東部に限られ、盛んだったのは昭和初年頃までで、戦中~戦後にかけて急速に廃れていった。聞き書きで得られた事例は短期的に行われていたものが主で、昭和20年代中頃が最終となる。焼畑はほかの山仕事にあわせて副次的に行う場合も多く、炭焼きの原木伐採後や植林山の木材伐採・搬出後に焼畑をやったという。この場合、周辺に残った低木や雑草を焼くだけでよく、手間がかからなかった。植林山の山主から伐採後の跡地を借りてカリヤマすることもあった。焼畑の作物としては大根を作る例が多く、雑穀などを輪作しないで単年で耕作する場合には適していた。わずかに聞かれた輪作事例には「1年目に大根、2年目にソバ」(大野瀬・稲武地区)、「1年目に大根、2年目にサトイモ、3年目に桑を植えて桑畑にした」(川手・稲武地区)というものがあったが、いずれも最初は大根を植えている。大根は焼けた木の株が点々と残っている間に種を蒔くだけで、ほかに手入れもしなかったといい、手間がかからなかった。山を焼いてできた灰は良質な肥料であり、施肥も不要であった上に、虫もまったくつかず、常畑で作る青首大根の種であっても甘くおいしいものができた。ほかに雑穀を作った事例では、アワ、タカキビ、ソバ、コウボウビエが聞かれる。〈農業〉

『新修豊田市史』関係箇所:15巻99ページ