(やくしじほんどう・さんもん)
【建築】
川見町(小原地区)。寺は高野山真言宗に属し瑠璃光山と号す。古くから「川見の薬師さん」といわれ信仰されてきたが、その創建は詳らかではない。中興二世快盛による宝永4(1707)年の『薬師寺中興建立記』によると、17世紀後半から18世紀初頭に伽藍が再興された。その後、『薬師寺再中興快山法印 拾弐世快運法印建立記』により、天保3(1832)年に庫裏・客殿再建、文久3(1863)年に本堂・回廊建立、元治元(1864)年に水屋建立、明治3(1870)年に本堂再建、天満宮建立、明治15年に鐘楼門再建がなされ、伽藍の再整備が行われていることが分かる。現本堂は『再中興建立記』に「文久二壬戌年三月釿始 大工棟梁牛久保村岡田飛騨正湊応 棟梁脇岩津鳥山重兵衛 仝川口村小出友太夫 明治三庚午年十月落成上棟式入佛供養」とある。本堂(写真)は、間口3間、奥行3間、入母屋造(背面寄棟)、妻入の三間堂で、背面軒下に奥行1間の庇を設け、正側三方に濡縁を廻らし、正面には軒唐破風付の1間向拝を設ける。軒は二軒繁垂木で、屋根は杮葺(現在は鉄板葺)である。妻飾は虹梁大瓶束・笈形付。間取りは、前方の奥行1間を外陣、その奥2間を内陣とし、背面の庇部分を後陣とする。主屋柱は粽付円柱で、柱間に縁長押・内法長押(正面は省略)・頭貫(外陣廻りは頭貫虹梁)を通し、柱上に尾垂木付の二手先斗栱を載せる。柱間は外陣廻り開放、内陣側面2間に舞良戸2枚を入れる。後陣は角柱を用い、側面に板戸2枚を入れ、背面を板壁とする。外陣と内陣境には、柱上に出組斗栱を載せ、柱間に半蔀戸を吊る。内陣の背面中央間は柱頂に花頭型の虹梁を入れ、前方に仏壇框を突出させて箱仏壇を形成し、後陣内に細い角柱を立てて板壁を設け、奥行半間ほどの張り出しを造り、ここに春日厨子を安置して本尊を祀っている。天井は内陣と外陣に格天井を張る。床は拭板敷き。また、前面の軒唐破風付の向拝では、龍の彫刻虹梁など装飾豊かに飾る点は、参拝者の視線を意識した構造・意匠と考えられ、幕末から明治初頭にかけての闊達な志向がうかがわれる。山門は『再中興建立記』には「明治十四辛巳年六月釿始 明治十五壬午年十月十三日上棟 大工棟梁牛久保門人荷掛村加知助杢請負」とあり、明治15年の建立であることが知られる。参道の石段に面して南(やや東に振って)を正面にして建つ鐘楼門は、下層を間口1間、奥行2間、上層を間口3間、奥行2間(東面3間)とし、屋根は入母屋造、茅葺(現在は鉄板で覆われる)で、軒は二軒半繁垂木とする。下層は四脚門の形式で、主柱・控柱とも几帳面取角柱を用い、扉は設けられていない。明治初期の比較的小規模な鐘楼門であるが、形の整った建物で、本堂とともに伽藍を構成する遺構として貴重である。庫裏も幕末に再建された遺構である。本堂・鐘楼門は市指定文化財となっている。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻177ページ