八劔神社舞台

 

(やつるぎじんじゃぶたい)

【建築】

西広瀬町(猿投地区)。八劔神社の境内は、北側の本殿が鎮座する小高い部分と、この南側に広がる1段低い部分に分かれている。当舞台は、本殿と拝殿とを結ぶ軸線の延長線上に位置し、境内南端の1段低い部分に本殿と向かい合って北向きに建てられている。本殿と舞台の間には広い空間があり、地芝居の上演時には臨時の観客席になる。農村舞台の建立年代は、棟札によれば寛政10(1798)年8月に再建されている。大工は三河国加茂郡御作村の小出善吉であった。また、当初材とみられる舞台正面の大虹梁両端の渦若葉模様、および主屋背面の左右の差鴨居に彫られた渦若葉模様の彫刻にも江戸時代後期の特徴がみられることからも首肯できる。その後、明治26(1893)年にも改修工事が行われている。その内容は明らかではないが、おそらく、この頃に舞台の後方に下屋を付け加えて拡大し、小屋組を改造して、新たに瓦庇を付け加えたのであろう。舞台は、入母屋造、茅葺(鉄板覆)、平入の建物で、周囲に瓦庇を廻らす。建物規模は、桁行9.20m、梁間8.395m、床高0.82mで、前より奥行5.495mを主屋、その後方の奥行2.9mが後補の下屋部分となる。この舞台は、当地方では最も古い遺構に属し、江戸後期にはすでに太夫座や床面拡張機構(ガンドウ)や遠見などの舞台機構が整っていたことが分かる。豊田市内における初期の舞台形式の一端が垣間みられる貴重な遺構である。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻435ページ