矢作川漁業協同組合

 

(やはぎがわぎょぎょうきょうどうくみあい)

【近代】

政府は明治34(1901)年4月漁業法を公布し、続いて翌年5月漁業法施行規則と漁業組合規則を定め、水産行政は大きな転機を迎えた。こうした法令によって、水面を区画して漁業権を得ようとする者、水面を専用して漁業権を得ようとする者は行政官庁に申請して、免許を受けることになった。また一定区域内に住所を有する漁業者は、行政官庁の許可を得て漁業組合を設置することが認められた。漁業法には、農商務大臣は遡上する魚類を害する恐れがあるときは、一定の区域内の工作物の設置を制限、禁止し、除害工事を命ずることができるという条項があった。明治34年12月、明治用水の導水場所(西加茂郡根川村大字今)に矢作川を横断する堰堤が築かれた。この堰堤には魚道が設置されていなかったため、関係漁民は魚道敷設を求めて運動を始めた。同35年矢作川の漁民は鮎漁などを守るために、矢作川漁業保護組合を結成した。初代組合長は東加茂郡介木村大字小渡の鈴木茂樹であった。鈴木は沿岸10か村を代表して魚道設置の請願書を農商務省へ提出し、明治用水側との協議を経て、大正5(1916)年6月に魚道の完成をみた。同15年6月愛知県は、矢作川漁業協同組合の設立を認可し、その後組合では積極的に養殖事業を展開していった。昭和4(1929)年12月、越戸ダムが竣工したが、組合では三河水力電気会社と協定を結び、ダムに魚道は敷設されたものの漁獲量が減少するため、会社は組合に補助金・寄付金を出すことになった。しかし組合はさらに魚道の改修や補償金を会社に要求し、昭和8年には漁民400人余りが越戸発電所に大挙して押しかけるという行動を起こすまでになった。昭和10年には笹戸発電所が完成したが、この建設をめぐり組合は大同電力会社と協定を結び、毎年1500円の補償金などを組合が受領することになった。こうしたダム・発電所との協定を経て、昭和11年6月、組合はかねての懸案であった専用漁業権の免許を農林省から付与された。漁業権の内容は、漁場の区域、免許期間、漁業期間などであった。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻466・582ページ

【現代】

漁業管理区間は矢作川上流豊田市時瀬町地内寿橋から下流岡崎市細川町地内天神橋まで。昭和55(1980)年に第1回アユ釣大会を主催。平成3(1991)年には建設省へ矢作川の環境維持流量拡大に関する陳情を行う。平成5年に東加茂郡旭町・西加茂郡小原村(いずれも現豊田市)とともに連絡協議会を結成し、翌年には市も加盟。こうした動きを地域レベルにも拡大させようとするのが、平成7年3月の矢作川活性化対策協議会を発足させる決議である。「矢作川に関する陳情書」(平成6年3月)は、市長・旭町長・小原村長とともに、建設省中部地方建設局豊橋工事事務所に対して、中部電力笹戸発電所の減水区間(笹戸から小渡まで)の河川維持流量をふやすよう要望するもの。「協定書」(平成8年6月)は、旭町・小原村・矢作川漁業協同組合・中部電力株式会社による協定であり、中部電力の笹戸えん堤からの放流量を毎夏5か月間はおおむね毎秒2.9m2、ほかの期間は毎秒1m2を笹戸えん堤への流入量の範囲内で放流するなどの条件を明記。平成6年7月1日、市と枝下用水土地改良区(現豊田土地改良区)とともに、第三セクター方式で豊田市矢作川研究所を発足させる。矢作川流域の自然環境の保全・創出を目的に“1河川に1つの研究施設を”という理念のもと運営を開始した。平成15年には、矢作川漁協の創立100周年記念の第35回総代会において、矢作川流域に豊かな内水面漁業を提供していくための指針として7項目からなる環境漁協宣言を採択。この趣旨に基づいて、全国ダムサミットの開催や法的手段による運動を推進しつつ、矢作川流域委員会に対して明治用水頭首工への河川維持流量の設定を提案していくことを方針とした。同年4月、市と矢作川水産資源保護調査実行委員会が矢作川水産資源保護事業の協定を締結した際には、矢作川天然アユ調査会、市役所産業部農林課、豊田市矢作川研究所とともに委員会を組織。矢作川流域の水産資源上重要な魚類の調査研究を行い、保護に関して関係機関に提案するのを目的とした。平成17年に矢作川漁協森林塾を漁協内に設立。平成24年には中部電力岡崎支店や豊田市矢作川研究所とともにダム研究会を立ち上げ、調査目的をダム被害の原因究明に据えている。

→ 豊田市矢作川研究所