矢作川の治水

 

(やはぎがわのちすい)

【近世】

中央アルプス南端、大川入山を水源とする矢作川は、流域の8割近くが花崗岩地帯であり、真砂(マサ)と呼ばれる粗砂を大量に供給する典型的な砂河川である。そのため、上流から運ばれる土砂の堆積作用で天井川化するとともに、中流域では流路をさまざまに変化させ、氾濫を繰り返していた。これに対し、文禄3(1594)年、田中吉政による築堤事業や、慶長10(1605)年の矢作新川開削により、乱流河川の一本化と流路整備が進められていった。市域では、慶長14年の水害で、矢作川右岸の挙母・梅ヶ坪両村と左岸の寺部領の間で流路変更を生じ、多くの耕地が「永川成無高」となっている。なお、この慶長期の流路変化とその後の確執を背景として、天和元(1681)年には、挙母・梅ヶ坪両村が寺部村による新規水制(護岸構造物)の撤去を求める訴訟を起こしたが、翌年の評定所裁許により、双方の境界および水防施設等の位置がいったん確定している(写真)。しかし、文化2(1805)年には国役普請が実施され、堤防修築位置で再び対立を生じたため、境杭設置などの紛争防止策がとられるなど、流路変化の影響はその後も続いたのである。挙母地区の水害に対しては、延宝元(1673)年、三河代官鳥山牛之助精元が挙母東町に直角に張り出す堤を築く工事を実施している。この堤はその形状から「曲尺手(かねのて)」、あるいは「延宝堤」「精元堤」と呼ばれ、洪水に苦しめられた地域の人々に長く記憶されることとなった。その後も矢作川の氾濫は続くが、特筆されるのは、宝暦・明和・安永期と連続した大水害である。宝暦7(1757)年5月の暴風雨・洪水は、矢作川右岸の中島村など流域各所で破堤し、分厚く堆積した土砂は、生産環境の迅速な復旧を拒んだ。この被害は、再生産困難な貧農層と土地を集積する富農層への分解を促進したほか、荒地への木綿栽培の普及をもたらすなど、地域にさまざまな影響を及ぼしていく。さらに明和4(1767)年7月には、猿投山が崩壊するほどの豪雨となり、矢作川の堤防が数百か所で切れ、流域各地が冠水し、多数の犠牲者を生むとともに、鴛鴨村や渡刈村では集落移転が行われている。また、安永8(1779)年、寛政元(1789)年、文化元(1804)年、文化13年、文政11(1828)年にも大規模な水害が生じており、矢作川流域に甚大な被害を及ぼしたことが確認できる。このように、ほぼ10年おきに大規模な洪水に見舞われた根本原因は、上流部が崩壊しやすい花崗岩帯であるという地理的条件のもと、燃料材の乱伐など、山地の過剰利用を大きな要因とする土砂流出と、その堆積作用による異常な河床上昇と考えられる。矢作川流域村々による明和4年の国役普請願書によれば、最近10年間で河床が4~7尺(約1.2~2.1m)、この半世紀では1丈5~6尺(約4.5~4.8m)も上昇したと、その著しい天井川化を捉えていた。しかし、河床上昇への抜本対策として流域村々が求めた川浚えは行われず、その後も流域水害は続き、流域住民の疲弊を招くとともに、領主財政を圧迫する要因ともなっていった。なお、宝暦7年、赤坂・島田代官は百姓持山や入会山への杉・檜の植栽と生育状況の報告を指示するなど、造林・治山対策を意識した取り組みを進めたほか、寛政10年には、矢作川流下の障害物となる竹木刈払いを流域一帯に命じるなど、一定の減災策にも踏み込んでいる。また、挙母藩では、水防体制の一環として、出水時には鉄炮を合図に出動する組織が組まれたほか、文政3年には矢作川の渡場に水量杭を設置し、水量監視を行う防災体制が整備されていった。


『新修豊田市史』関係箇所:3巻462ページ

→ 矢作川の天井川化矢作川の氾濫

【近代】

矢作川は岐阜県恵那市との境を西に流れ、勘八峡付近で山地部を抜けて豊田盆地に入り、南に流下して三河湾に注ぐ、幹線流路の延長117km、流域面積1830km2の一級河川である。矢作川には上流域では、根羽川、名倉川、黒田川、段戸川、介木川、阿摺川、飯野川、御船川、籠川などが合流する。矢作川の治水事業は明治初年から流域の村が堤防を修繕する一方、県は堤防締役を置いて、河川に関わる工事の管理や修繕、洪水の際の防御指揮などを担当させた。また明治10年代には、西加茂郡役所は矢作川筋などに堤防看守を置き、また松苗を植樹するなどして堤防強化策を取った。明治15(1882)年の矢作川堤防の決壊以降、県や郡は被害状況の視察を行い、修繕工事を本格化させる一方、流域町村では水防組織が作られていった。矢作川水害を防止するための河川改修工事を実現するために、明治20年代から30年代にかけてさまざまな形での運動が起きた。明治26年には挙母町の下流、明治用水取入口の上流に位置する、西加茂郡根川村と野見村に接する矢作川の狭窄箇所(通称「鵜の首」)を開鑿する計画が西加茂郡会や挙母町会で議論され、周辺町村が参加した矢作川改修同盟会も組織された。さらに明治32年には矢作川の改修を実現することを目的に、県会議長内藤魯一(碧海郡選出)や県会議員大岩勇夫(西加茂郡選出)・同大山保(東加茂郡選出)らによって矢作川改修期成同盟会が設立された。明治30年代前半には、矢作川に加えて、庄内川・豊川の改修も課題となっており、県会ではこの3河川の改修意見書を内務大臣へ上申し、他方では流域各村の住民からもくり返し帝国議会へ向けて改修請願書が提出された。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻164・278ページ

→ 矢作川の天井川化矢作川の氾濫