(やはぎがわのはんらん)
【自然】
市域ではこれまで、伊勢湾台風や東海豪雨のほかにも、矢作川の氾濫による水害に繰り返し見舞われてきた。市域における風水害の記録によると、矢作川に関して洪水、破堤、橋の流失などの記述が出てくるのは、元亀2(1571)年からである。具体的に市域の地名が出てくるのは、慶長14(1609)年9月14日が最初である。それ以降、矢作川の氾濫は数多く記述されるようになり、特に市域では挙母地区において破堤・氾濫が多く発生したことがわかる。なかでも正徳4(1714)年および享保7(1722)年の風水害は激甚で、享保7年の水害は伊勢湾台風と類似の台風によって、矢作川をはじめ、各河川が出水して氾濫し、大規模な水害となったとされる。18世紀中頃には市域を含む洪水の記録が続き、明和2(1765)年9月中旬の水害では挙母村で氾濫し、家屋80軒が流失して多数の死者が出たことが記録されている。明治期以降では、明治15(1882)年10月1日の水害において矢作川の堤防が挙母村内でも決壊したほか、同年5月に竣工したばかりの平戸橋も流失した。挙母学校では2日から5日まで休校措置が取られた。明治22年9月11日の水害では、東西加茂郡に堤防や道路の損害が大きく、挙母村では堤防の決壊で村一帯が水没し、田畑に大きな被害を出した。また東加茂郡九久平村でも巴川が増水した。明治26年8月17~18日の水害では、矢作川では合歓木から米津付近にかけて10数か所で破堤・氾濫した。明治29年も県のみならず全国的に大きな風水害に見舞われた。9月4日から11日にかけて長雨が続き、矢作川が氾濫する被害を出した。また明治36年7月7~9日の風水害では、挙母町の矢作川堤防約220m欠損、根川村(挙母地区)長興寺の矢作川堤防約90m破堤、翌年明治37年7月10日には根川村で矢作川堤防決壊、根川・挙母の田畑200ha余浸水・橋3か所流失・死者3人・負傷者1人・家屋倒壊3戸との記録が残されている。その後も明治44年8月5日に根川村長興寺の堤防他で破堤、また天神橋・矢作橋も破壊または流失となるなど、同じような場所で矢作川の氾濫による被害が繰り返されてきたことがわかる。昭和に入ってからは伊勢湾台風以外にも昭和4(1929)年、昭和24年などで著しい出水と沿川の被害が記録されている。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻275ページ、12巻80ページ、23巻630ページ