(やはしらじんじゃほんでん)
【建築】
国附町(石野地区)。現本殿は、棟札より宝暦12(1762)年に再建されたものである。本殿は桁行1間、梁間1間の一間社流造で、屋根は杮葺、軒は二軒繁垂木とする。妻飾は虹梁大瓶束・笈形付で、束上に大斗実肘木を載せ化粧棟木を受ける。破風の拝みと降りには蕪懸魚を吊る。身舎柱は円柱で、柱間に縁長押・内法長押・頭貫を廻らし、頭貫端に木鼻を出す。柱上では出三斗を載せ、正面のみ中備に蟇股を入れる。正面柱間には敷居と鴨居を通して、方立・小脇羽目を組み両開き板唐戸を吊る。向かって右側面の柱間では中央に角柱を立て、前方は戸口として引込みの板戸を1本入れる。その他の側背面の柱間は横板壁とする。身舎の正側三方には刎高欄付の縁を廻らし、両側面縁の後端に脇障子を立て、正面の縁には登高欄付の木階6級を設ける。庇柱は面取角柱で、柱間に頭貫虹梁を入れ、端に木鼻を出す。柱上では連三斗を載せ、中備に蟇股を配し、斗栱の内方に手挟を入れる。この本殿は、側面にも戸口を設ける点に特徴があり、江戸時代後期の一間社流造の指標となる遺構である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻219ページ