(やはしらじんじゃほんでん)
【建築】
御作町(藤岡地区)。社伝に安元3(1177)年この地に来住した山内摂津守正信が鎮守の神として勧請したとある。本殿の建立年代は、様式から19世紀初期頃のものと推察される。本殿は桁行3間、梁間1間の身舎に三間庇を付した三間社流造の社殿で、屋根は銅板葺(もとは杮葺か檜皮葺)、軒は一軒繁垂木である。妻飾は虹梁大瓶束で、束上の拳鼻付の大斗実肘木で化粧棟木を受ける。破風の拝みと降りに蕪懸魚を吊る。身舎の正側三面には刎高欄付の縁を設け、両側面の縁後端に脇障子を立てる。正面の縁では登高欄付の木階6級を設け、その下に布目縁の浜床を造る。身舎柱は円柱で、四周に縁長押・内法長押・頭貫を廻らし、頭貫端に木鼻を出し、柱上に大斗花肘木(正面中2本は拳鼻付)を載せる。中備は側面に蟇股を配す。正面3間では無目敷居と鴨居を通して、柱間を開放し、奥行2尺3寸を入込み部分とする。内陣正面の3間では、両端に半円柱、中2本に円柱を立て、中敷居・鴨居・内法長押を通して、方立・小脇羽目を組んで両開き板戸を吊る。庇柱は面取角柱で、柱間に頭貫虹梁を入れ、端に木鼻を出す。柱上では両端に連三斗、中2本に出三斗を載せ、中央間のみ中備に蟇股を配す。また、両端では庇柱と身舎柱の柱間に海老虹梁を架け、中2本では内方に手挟を入れている。この本殿は、中規模の入込み付三間社流造で、過飾に陥らず、質の高い遺構である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻224ページ