山稼ぎ

 

(やまかせぎ)

【近世】

加茂郡・設楽郡から額田郡・八名郡にまたがる三河高原の山々には、建築土木用材に適した檜・栂・松などの天然林が植生しており、幕府はこうした山を御林に指定し、周辺の村に盗伐の防止などその管理を命じた。この地域の御林から元禄年間(1688~1704)頃までは御用材が盛んに伐り出されているが、18世紀中頃以降、森林資源が枯渇するなかで、幕府は積極的な造林政策を展開し、御林のみならず百姓持山や入会山での杉・檜の植林を奨励している。領主の御林からの御用材、あるいは材木商人が百姓持山などから買い付けた用材を伐採する際には、杣・木挽職人のほかに搬出のための日雇人足などが従事し、さらに矢作川など河川への搬出からその後の川下げによる輸送作業には、日雇・筏師などが関わった。用材の伐採と搬出は市域内の人々に杣、木挽、日雇人足としての稼ぎの機会を提供する場でもあった。以上のような建築土木用材としての伐り出しのほか、用材を伐り出した後に残された立木や雑木は、木挽・下駄職人・木地師などに加工用の原材料として、あるいは木炭の原料として炭焼き職人に払い下げられた。三河と美濃の国境に位置する大ヶ蔵連村(小原地区)の御林からは天保9(1838)年に矢作川普請用材と江戸廻し材木が、安政3(1856)年には岡崎の大樹寺普請用材が伐り出されているが、明治2(1869)年の「大ヶ蔵連村御林山私伐木代金取上方調帳」によればこの大ヶ蔵連村御林の立木が白炭・黒炭といった木炭、板材、薪として払い下げられていたことが確認できる。山のめぐみである樹木は、炭焼き・木地師・木挽などの諸稼ぎを成り立たせる基盤でもあった。炭焼きは市域の山間部で盛んに行われていた。明治2年の「大ヶ蔵連村御林山私伐木代金取上方調帳」では「白炭」「黒炭」「炭」「長炭」「小俵」といった木炭が、美濃国恵那郡の村を含む大ヶ蔵連山周辺の村の人々によって焼き出されている。また下山地区における山論では、しばしば村の住人による炭焼きや炭窯が論点として取り上げられており、遅くとも17世紀中頃までにはこの地区で炭焼きが行われていた。例えば承応2(1653)年の羽布村(下山地区)と田原村(新城市作手地区)の山論で、田原村は6年以前の慶安元(1648)年に羽布村の吉左衛門が下り沢山で炭窯を打って炭焼きをしていたことを指摘しており、その後も地域住民による炭焼きは盛んに行われた。明治4年当時の年間木炭生産量は黒坂村4900俵、野原村3800俵、羽布村1272俵、和合村534俵、小松野村480俵、梶村400俵、神殿村400俵、東蘭村160俵となっている。御林の御用材伐採後の立木や村持山・百姓持山の立木は、木地師(木地屋・轆轤師)によって椀や盆の木地に加工され、木地仲買や木地問屋を経由して商品として売却された。木地師のなかには1か所に定住することなく、原木をもとめて各地の山中を移動する者もいた。現在のところ市域の村で最初に木地師の存在を確認できるのは享保年間(1716~36)である。享保12(1727)年、野入村(稲武地区)と稲橋・武節・桑原3か村の間の山論は、野入村が木地師に村最寄りの山中での小屋掛けを許可し入山させ、その木地師が伐採した立木が発端であった。寛政年間(1789~1801)以降は加茂郡の大多賀山や御内蔵連村の金蔵連山でも木地師の存在が確認できる。寛政12(1800)年6月、これら木地師の抱え元である明川村(足助地区)の庄左衛門、足助村の与七、千田村(足助地区)の武平次の3人が、幕府代官所に御用材の仕出しを終えた段戸山御林の雑木の払い下げを願い出ている。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻278ページ