山田無文  1900~1988

 

(やまだむもん)

【現代】

稲武町名誉町民。臨済宗妙心寺派管長。明治33(1900)年7月16日、北設楽郡武節村(のち稲武町)に生まれる。俗名長次郎、号は太室、通仙洞。実家の大和屋は江戸時代から明治時代にかけて材木商と塩問屋を営んでいた武節村を代表する商家であった。小学校を卒業後に上京し、早稲田中学に入学、その後に病を得て帰郷したものの、のち日本で最初にチベットに入国した仏教学者河口慧海に師事し、さらに臨済宗大学(のち花園大学)に学んだ(大正14年卒)。昭和24(1949)年11月から同53年3月まで花園大学学長として尽力し、同年から昭和57年まで臨済宗妙心寺派管長を務めた。管長退任後は妙心寺塔頭の霊雲院に住まい、書画を嗜んだ。明治以降稀代の名僧といわれたが、平易な説法で知られ、戦没者の慰霊と遺骨収集なども行い、昭和45年には社団法人南太平洋友好協会を設立して、遺族が政府の援助で渡航できる道を開いた。一方、故郷稲武町では、昭和49年2月21日に無文揮毫の「まじめ力いっぱい」の校訓碑(写真)が建立され、昭和53年9月の無文からの寄付金1000万は「無文老師賜金」として町の教育基金となった。また「無名会」と名付けられた、無文を敬慕する者たちの集まりも作られ、昭和60年6月17日、名誉町民の称号を授与された。昭和63年12月24日死去。享年88。その合同葬にあたって当時の稲武町長古橋茂人は「決して孤高の禅者ではなく慈愛に溢れ、常に大衆の中に身を処された」と、その死を悼んだ。平成に入ってからも稲武小学校では校訓碑「まじめ力いっぱい」をかたどった文鎮が卒業生に贈られ、修学旅行の際には無文ゆかりの妙心寺に参拝に訪れている。