又日亭

 

(ゆうじつてい)

【建築】

小坂本町(挙母地区)。七州城址公園内。創建年代は不詳であるが、江戸末から明治初期に尾張徳川家の重臣で寺部領主の渡辺家の陣屋に建てられた書院と茶室。明治25(1892)年に龍寿院(千足町)に移築され、昭和52(1977)年に老朽化のため七州城址公園に再移築された。床廻りや躙口の扱いなど類例の少ない設計手法から、渡辺規綱(雅号又日庵)の好みと考えられている。規綱は、10代当主で武人だが、茶道や作陶、本草学に詳しく、実弟に玄々斎(裏千家11代家元)がいる。木造平屋建、寄棟造、茅葺に銅板を覆い、周囲の下屋を桟瓦葺きとする。桁行5.5間、梁間3.5間、建築面積58.7m2。裏側北面に水屋と物置が突出している。間取りは、中央に玄関を設け、右側半分(東面)を数寄屋座敷(客座5.5畳、前室1.5畳、待合4畳、水屋と縁側)とし、左側半分(西面)を書院座敷(9畳、次の間4畳と押入れ・縁側)とした、数寄屋風書院造としている。一坪の内玄関は、右側に本席待合を、左側は書院の次の間に通ずる。正面には本席に入る躙口を付けている。室内に躙口のある例は、名古屋市の昭和美術館に捻駕籠の席(南山寿荘・書院および茶室・天保3年)がある。もと渡辺家熱田尾頭(名古屋市)の下屋敷から移築したもので、又日葊と玄々斎が携わる。書院座敷には長押が廻り、数寄屋とは無目の敷居と鴨居を用いて区別する。炉は次の間から使用する広間切りで、一間の床を上座に設ける。南東には、高めの地袋(幅1.8m、側面97.5cm、高さ83.5cm)が付いていて、束丸太を天板より少し出した「鎧飾台」とする。天井は棹縁天井、縁側には、雪見障子が付いている。数寄屋座敷は、客が躙口から入ると一畳半の客間が用意され、敷居はないが、下方を吹き抜いた狆潜り風の半間の脇壁と上部の垂れ壁で空間を区切り前室としている。その天井を鏡板としている。茶席の炉は四畳半、台目畳の点前座に向板が付き(向切)、一間の床が縁側まで続くが、床と琵琶台とが兼ねられた洞床となっている。その東壁面を三日月形に塗り残し、障子が掛かる。天井は、台目畳を蒲の落し、床上を鏡板、客座を床差の棹縁天井としている。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻406ページ

→ 渡辺規綱