(ゆうやかんのんどうずし)
【建築】
遊屋町(小原地区)。厨子の建立は、「奉造立十一面観音堂宮殿一宇」とする棟札があり、貞享4(1687)年に建立されたことが分かる。棟梁は名護屋之住人藤原朝臣藤山甚助尉信良とある。厨子は正面1間(575mm)、側面1間(480mm)、入母屋造、妻入(背面切妻)、杮葺の一間厨子で、観音堂の内陣仏壇の中央に安置される。妻飾は虹梁大瓶束とし、軒は二軒繁垂木、屋根に箱棟を載せ、正面のみに鬼板を置く。柱は粽付円柱で、四周に地長押・地貫・敷居・鴨居・内法長押・頭貫・台輪を廻らし、頭貫端を木鼻とする。柱上では拳鼻・実肘木・尾垂木付の二手先斗栱を載せ、正側面とも中備に同様の斗栱を配して詰組とする。正面柱間は方立・小脇羽目を組み、上下の長押間に桟唐戸を吊る。側背面の柱間は横板壁。厨子内は板敷きとし、後半部の床を一段上げて本尊を祀る。地域住民が管理する惣堂内にあって、廃仏毀釈の難を逃れた遺構であり、比較的に小型ではあるが、江戸時代前期の和様を基調とした折衷様の宮殿型厨子として貴重である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻184ページ