養寿寺本堂

 

(ようじゅじほんどう)

【建築】

花園町(高岡地区)。寺伝ではこの地に古くから観音堂があり、平安時代の末期、平景清はこの地に来て宿した所縁から、後に出家して栄日坊不二丸と称した。栄日坊は当地の観音堂を再興し、天台宗万寿寺を開くと、土地の人からは観音堂と呼ばれていた。その後、室町時代に至り、応仁2(1468)年には蓮如の三河教化の影響が野寺の本證寺を経て、この地にも及ぶ。栄日坊の跡を継いだ住僧の中根七三郎長持の子孫は、蓮如に帰依して本願寺派に転じ、名を法信と改め、名号を下付された。天文年間(1532~55)の頃には道場の名前を真定坊と称し、その後養寿寺となったという。現在の本堂の建立年代は、棟札によると、寛政9(1797)年4月29日、当山中興15世慶俊の代に再建されたことが分かる。棟梁は片山吉左衛門、棟梁脇は片山儀兵衛であった。本堂は、桁行実長9間、梁間実長9間、寄棟造、棧瓦葺。向拝1間(実長2間)付の中型の真宗本堂で東面する。軒は二軒繁垂木。間取りは、堂前半の間口6間、奥行2間半を外陣、その奥1間を矢来内とし、外陣の正側三方に幅1間程の広縁を付け、正面中央に向拝と木階4級を設ける。堂後半は、中央の間口3間、奥行3間を内陣、その両脇に間口2間、奥行2間半の余間を配す。余間の外側には間口1間の落間を設け、堂背面に奥行1間の後堂を配す。内陣は来迎柱と須弥壇を用いる後門形式を採用する、柱は来迎柱と脇仏壇前柱の4本を円柱とするほかは面取角柱を用いる。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。虹梁は落縁・広縁境の柱間、矢来内正面の柱間、外陣内梁行の柱間、内陣内部の柱間、脇仏壇・余間仏壇正面の柱間、来迎柱の柱間に渡され、外陣内梁行と矢来内正面の虹梁上に蟇股、余間仏壇、正面には詰組と蟇股を載せる。広縁柱の柱上には舟肘木を載せる。外陣外廻りは柱上に出組斗栱と波彫の板支輪を載せ、柱間には正面中央3間と側面前端1間に双折桟唐戸と障子を入れる。内陣および余間正面は柱上に出組斗栱を載せ、中備蟇股、波彫の板支輪を配し、内法上に鳳凰や翁や花の高肉彫欄間を嵌め、柱間には内陣前に巻障子、余間前に千本障子を入れる。内陣および余間内部には、ともに出組斗栱と蟇股と波彫の板支輪を配すが、来迎柱と内陣側の柱上と詰組には、尾垂木状の材の付いた二手先斗栱を用いる。天井は広縁を鏡天井、外陣と矢来内と余間を格天井、内陣を折上格天井、飛檐の間と後堂を棹縁天井とする。この堂を復原すると、現在、奥行 9 間の中型の本堂であるが、背面の下屋と外陣南の落縁が後補のためなくなり、内陣の脇仏壇が半間前進して余間仏壇の前端に揃えた通し仏壇の中央前に須弥壇を設けた形式に復原できる。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻101ページ