(ようたくじ)
【近世】
文明元(1469)年の創建とされる篠原町(保見地区)にある曹洞宗寺院。もと永源寺と称し、駿河今川氏より与えられた古文書等を伝える。慶安元(1648)年に現在地に移転し永澤寺と改称する。曹洞宗はもともと、全国各地に有力な本山が分散していた状態だったが、戦国時代の前後に、急速に全国的な本末関係の組織づくりが進み、元和6(1620)年には改称前の永源寺に対しても、能登の曹洞宗大本山総持寺に出仕するよう求める史料が残されている。小牧・長久手の戦いの主戦場の一つであった尾張岩崎城主から転封してきた丹羽氏の2代目氏信が、入部にあたり永源寺に対し「合力米」を出している事例は、新来の領主が地域に定着するうえで、寺院との関係形成がひとつの焦点だったことを推測させる(写真)。寺院は本来、大名や領主と対等に付き合える地位にあったのだが、境内地の保全を周辺住民に命じる制札の入手について、当初は幕府代官と直接交渉できていたものが、のちには村を経由して領主と交渉するようになっている。寺院の政治的・社会的な地位の変化を示しており興味深い。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻650ページ
→ 永源寺